改訂新版 世界大百科事典 「聖書学」の意味・わかりやすい解説
聖書学 (せいしょがく)
Bible study
聖書学とは,ユダヤ教によって伝えられ,さらにキリスト教会が正典と定めた聖書を主要対象とし,その形態,内容,本質を理解するため,それと関係する広範な地域と関係文献とのつながりを保ちつつ研鑽する学的営みである。聖書学は,キリスト教学の一科ではあるが,一般人文科学と共通する方法を用い,言語学,文芸学,考古学,地理学,歴史学,人類学,社会学,宗教学その他の学問の助けを得て,聖書の諸局面,言語,地誌,歴史,社会,伝承,文学,思想を専門的にあるいは総合的に把握し,歴史宗教としてのキリスト教の起源と特質の理解に資することを図る。聖書学は,ガーブラーJohann Philipp Gabler(1753-1826)が,文法的・歴史的ないし発生論的な学として,聖書(神)学を教理(教義)神学から独立させたことによって成立した。今日では,旧約聖書学,新約聖書学に分化し,方法論的に共通するものはあるが,それぞれで専門的深化がなされている。
旧約聖書学
その範囲は,歴史的には,古代オリエント世界におけるイスラエル民族とその運命を,その起源からローマ時代までたどるのが普通であり,地理的には,東はインダス河畔,北はカスピ海沿岸,西はトルコ,さらにスペイン,南はアフリカ,さらにアラビア半島を含む地域とその諸文明圏を視野に入れてなされる。伝統的に旧約学固有の諸科としては,緒論,釈義,神学があり,補助学ないし基礎学科として,語学,考古学,歴史(イスラエル史)が数えられる。語学としてのヘブライ語,アラム語は直接の原語であり,そのほかに多くのセム語その他が関連語学として必要とされる。聖書考古学は,聖書が言及する史的事件,制度,文化に直接・間接にかかわる資料を系統的に提示する。イスラエル史は,考古学資料と文献資料を解釈して再構成される。緒論は,旧約聖書全般にかかわる学的成果を批判的に通覧するが,総説では学説史,正典成立史,本文(ヘブライ語本文形成史,諸古代語訳)などを扱い,各論では旧約各書の内容,資料,伝承,編集過程,思想に関する諸説を論ずる。釈義は,緒論的知識を前提として,本文批評による本文の確定,文献批判,形態批判,伝承史,編集史的総合,あるいは文体批判を動員して,構造と意味の確定に努める。神学は,以上の成果を基に思想の系統的叙述を行う。19世紀末,ウェルハウゼンは,文献資料を発展史観によって並べかえてイスラエル宗教史として再構成し,旧約学の祖となったが,そのころから数多く発見された資料に照らし,環境世界と旧約聖書との有機的把握を主張した宗教史学派(代表H.グンケル)が20世紀初頭より主流を成した。M.ウェーバーの《古代ユダヤ教》は社会学的構造連関を明らかにし,ラートGerhard von Rad(1901-71)の《旧約聖書神学》と《イスラエルの知恵》は,イスラエル的思考の特質をまとめ,その後の学的討論の踏台を成した。
執筆者:左近 淑
新約聖書学
その内容を概観すると,まず新約聖書の言語の研究がある。新約はヘブライ的伝統の影響を強く受けた人たちが,ヘレニズム世界の共通語であったギリシア語(コイネー)で書いたもので,意味論上の特殊性が強い。それから本文批評がある。印刷機がなかった当時,文書は書写されて広まった。その間,写し違いや意図的な校訂がなされているので,写本の系統を分類し,それぞれの中で最も古く良い写本を比較検討して,原文を再建しなくてはならない。新約聖書は,1世紀中葉から2世紀初めにかけて,地中海沿岸文化圏の東部から北部にわたる各地で別々に書かれた27の文書を,後代の教会が編集して正典としたものである(4世紀末)。新約通論(緒論)は各文書を個別的に取り上げ,だれが,いつ,どこで,何のために,いかなる史料を用いて書いたか,その内容また他の文書との関係は何か,それらはどのような経過を経て正典結集に至ったか,などを研究する。釈義は,個々の本文を分析・検討し,著者がその語,その句,その文で何を語っているかを明らかにする。新約学全般にわたる知識も要求される中心的分野である。新約神学は,新約聖書の思想内容つまり,そこで神,キリスト,人間,歴史,罪,救済,教会,倫理,終末などがどう理解されているかをできるだけ体系的に叙述する。新約聖書解釈の方法論の反省も含まれる。そのほか,新約聖書の背景となっているユダヤ民族の歴史,ローマ支配下のユダヤ人の生活,新約に影響を及ぼしたユダヤ教黙示文学やヘレニズム諸宗教の研究がある(時代史,宗教史)。さらに主要な個別研究としてイエスの言行の再構成と解釈(イエス研究),パウロの生涯と思想の叙述(パウロ研究)の分野がある。
次に新約学の歴史を通観する。ゼムラーJohann Salomo Semler(1725-91)は,正典結集の歴史を研究して,聖書は霊感によって一度に書かれたものではないことを明らかにした。D.F.シュトラウスは福音書の超自然的奇跡の史実性を否定し,バウルFerdinand Christian Baur(1792-1860)は初代教会における律法主義と福音主義の対立を描き,〈パウロ書簡〉のうちどれが実際パウロによって書かれたかを論じた。ホルツマンHeinrich Julius Holtzmann(1832-1910)は〈二史料説〉(マタイとルカはマルコとイエス語録Qを利用した)を完成した。ワイスJohannes Weiss(1863-1914),A.シュワイツァーは,イエスへのユダヤ教黙示文学の影響を示し,ブセット(ブーセ)Wilhelm Bousset(1865-1920)は新約とヘレニズム諸宗教の関係を強調した。第2次大戦後,様式史的研究は,福音書が断片的口伝を集めて作られたものであることを明らかにし,1950年代以降,編集史的研究は,福音書記者の加筆と神学思想を取り出した。ブルトマンは新約の神話論的言表の根底にある実存理解を明確化する解釈法(非神話化)を提唱して,新約思想解釈学の基礎を築いた。
→解釈学 →聖書
執筆者:八木 誠一
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