日本歴史地名大系 「聚楽第跡」の解説
聚楽第跡
じゆらくだいあと
豊臣秀吉が天正一五年(一五八七)に、大内裏の故地である
造営着手は秀吉が関白に就任した翌年の天正一四年、大坂城の工事はまだ続行中であった。「宇野主水日記」は大坂城造築に諸国から徴発された人夫は七、八万から一〇万、それに対し「京都ノ普請ソノ
新装なった聚楽第についての「聚楽第行幸記」は
と描き、フロイスはその著「日本史」で賛嘆する。
聚楽の名について行幸記は「誠に長生不老のたのしびをあつむるものか」、フロイスは「快楽と歓喜の集りを意味する」と述べ、「山城名跡巡行志」は「連判録」を引用して「聚楽角坊」があったことによると記す。
造営の目的は豊臣政権の安定と権力を誇示することにある。後陽成天皇の行幸はそのため何より必要で、天正一六年(一五八八)四月一四日が行幸の日と定められた。当日の警衛の武士は六千余人、前駆が既に聚楽第に入っても、後乗はまだ宮内を出ないといった有様で、車馬衣冠も華麗を極めた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報