日本歴史地名大系 「膳所城跡」の解説
膳所城跡
ぜぜじようあと
〔築城の経緯〕
慶長五年(一六〇〇)九月八日関ヶ原合戦の前哨戦として東軍の京極高次の守る大津城が西軍の攻撃を受け、籠城八日間、関ヶ原合戦の日にあたる九月一五日開城した。戦後処理の一環として徳川家康は京都・大坂に対する防御施設として
〔規模と遺構〕
正保期(一六四四―四八)の膳所城絵図(内閣文庫蔵)によれば、湖岸の東方に二の丸が突き出し、さらに東に本丸(L字形の帯曲輪が付く)がせり出して両者は橋で結ばれる。二の丸の北に北の丸がある。のち三の丸となる城郭部分に「新たに築き出す」とあり、三の丸の造築が正保期に始まったことが知られる。なお外堀もこの頃に築かれたらしい。しかし寛文二年(一六六二)の大地震で城郭構造は大幅に変わり、建替部分を示した同年の膳所城絵図(滋賀県庁蔵)がある。嘉永期(一八四八―五四)とされる幕末膳所城下図によれば、本丸と二の丸は合せて本丸となり、北に米蔵所を兼ねる北の丸、本丸の南、もとの三の丸が二の丸で政庁の中枢部と記され、その南に三の丸が置かれている。
膳所城跡
ぜぜじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報