膳所城跡(読み)ぜぜじようあと

日本歴史地名大系 「膳所城跡」の解説

膳所城跡
ぜぜじようあと

[現在地名]大津市本丸町・丸の内町など

最大七万石の所領を統治した膳所藩の政庁。本丸・二の丸などが琵琶湖中に突出した典型的な水城で、戸田氏・本多氏・菅沼氏・石川氏らいずれも三河以来の徳川家譜代の大名が在庁し、明治維新に至った。畿内を押える軍事上の要地であるため勢多せた橋の管理および架替え、瀬田せた川筋供御くご瀬の管理にあたるとともに、上洛する将軍を京都へ送り出す最後の関門、将軍宿所の役割を有した。

〔築城の経緯〕

慶長五年(一六〇〇)九月八日関ヶ原合戦の前哨戦として東軍の京極高次の守る大津城が西軍の攻撃を受け、籠城八日間、関ヶ原合戦の日にあたる九月一五日開城した。戦後処理の一環として徳川家康は京都・大坂に対する防御施設として逢坂おうさか関の復旧と大津城再興の両案を考え、寵臣本多正信に相談したところ、正信は賛成せず、山岡氏の瀬田城跡大江おおえ村の窪江くぼえ城跡、膳所の大明神社地(膳所神社はもと膳所城の位置にあった)の三ヵ所を進言、最終的に膳所の地を築城の場所としたという(懐郷坐談)。大津城が背後に山をひかえ防御に不利であった点、大津を幕府直轄の経済都市として支配する一方、政治・軍事の拠点として新たに膳所城を築くという構想をもった点などが指摘されている。城が築かれた膳所崎は相模さがみ川の洲上で、築城にあたり同川の流路を付替えたという。工事は八人の奉行が監督にあたり、縄張りは名手といわれた藤堂高虎の手になる。工事は慶長六年に開始され、「当代記」同年六月条に「前々崎普請、大津の家門并びに石共彼地へ移さる」とあるように、廃城となった大津城から多くの建築物や石が移されており、現在残る旧膳所城門の解体修理調査からも証明されている。

〔規模と遺構〕

正保期(一六四四―四八)の膳所城絵図(内閣文庫蔵)によれば、湖岸の東方に二の丸が突き出し、さらに東に本丸(L字形の帯曲輪が付く)がせり出して両者は橋で結ばれる。二の丸の北に北の丸がある。のち三の丸となる城郭部分に「新たに築き出す」とあり、三の丸の造築が正保期に始まったことが知られる。なお外堀もこの頃に築かれたらしい。しかし寛文二年(一六六二)の大地震で城郭構造は大幅に変わり、建替部分を示した同年の膳所城絵図(滋賀県庁蔵)がある。嘉永期(一八四八―五四)とされる幕末膳所城下図によれば、本丸と二の丸は合せて本丸となり、北に米蔵所を兼ねる北の丸、本丸の南、もとの三の丸が二の丸で政庁の中枢部と記され、その南に三の丸が置かれている。


膳所城跡
ぜぜじようあと

[現在地名]小値賀町中村郷

城の越しろのこしに築かれた中世の城跡。新田につた城ともいう。宝亀五年(七七四)西海さいかい鎮護の勅命をうけた藤将軍近江が近江国膳所(現滋賀県大津市)より来島、中村なかむらに築城し、膳所城としたと伝える(「浄善寺系図」浄善寺文書)。あるいは一二世紀中葉に松浦直の勢力を広げようとする頃は近藤播磨守の居城であったとも、一時期は平戸松浦氏の源定が在城したともいうが、いずれも確かめがたい。跡地からは一四世紀頃の土器などが出土(昭和六一年度確認調査)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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