中村郷(読み)なかむらごう

日本歴史地名大系 「中村郷」の解説

中村郷
なかむらごう

現御嵩町なかから現加茂郡八百津やおつ伊岐津志いきつしにかけての地域。嘉禎四年(一二三八)七月二二日の官宣旨(春日神社文書)によると、当郷は東は小泉こいずみ御厨の可児大寺かにのおおてら(願興寺)西の小路を境にし、南の東寄りは久々利くくり庄、西寄りは明知あけち庄、西は荏戸春近えどはるちか、北は大河(木曾川)を境にしている。同官宣旨によれば、かつては国領であったが、嘉禎四年諸役が停止されて国司源親実から郷内春日社に寄進された。また地頭職については「当家可子孫相伝」とあり、願興がんこう寺蔵の嘉禎三年六月二二日の大般若波羅蜜多経奥書に「供養檀那中村上地頭源康能」とあることから、当時の地頭は源(纐纈)康能であったことが知られる。

中村郷
なかむらごう

和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。

長保三年(一〇〇一)四月八日付禅定寺領田畠流記帳(禅定寺文書)に「綴憙郡中村郷」がみえ、「楡瀬里・下古川里」に禅定ぜんじよう(現宇治田原町)領があった。そのうちの一所の四至に「限東公田并元興寺古溝 限西元興寺地 限南興福寺僧観念地 限北左大臣殿地」とあり、中村郷内に奈良元興がんごう寺領、左大臣藤原道長領などもあった。

「山城志」は「今中村存、隷久世郡、按図亘奈島市辺諸邑、其故地也」と記して綴喜郡青谷あおだに(現城陽市)に比定し、地名の一致からこれが定説化しているが、古代にそれを裏付ける史料は見当らない。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」に記載される匝瑳そうさ郡中村郷の郷名を継承する。中世は千田ちだ庄に属し、近世初頭に南中村・北中村に分割された。在地領主として千葉氏系の中村氏が知られる。神代本千葉系図は常衡系海上氏の一流に中村氏を載せ、小太郎泰常・又太郎胤家・弥太郎盛胤と継いでいる。元徳三年(一三三一)九月四日の千葉胤貞譲状(中山法華経寺文書)に「同庄(千田庄)中村郷」とみえ、千葉胤貞は同郷の三谷堂職田地二町五段・辻堂職田地五段・田地五段と各在家一宇を養子である本妙ほんみよう(現中山法華経寺)貫首日祐に譲与している。

中村郷
なかむらごう

現在のなか地区一帯に比定される中世の郷。もり蔵泉ぞうせん寺所蔵の大般若経巻一七三は至徳二年(一三八五)四月一三日、笠原かさはら庄中村郷で書写されている。応永二〇年(一四一三)正月一九日の範泰(今川範泰か)書下(富田仙助氏所蔵文書)では、天野景政に「笠原庄内中林郷地頭領家」を給分として預けており、中村郷をさすとみなされている。当郷には高松たかまつ(現浜岡町)の神田一町があり、明応六年(一四九七)一〇月二三日、当郷の百姓大石継光は神田の冬季経田一町を年貢一貫五〇〇文で請負っている(「大石継光請文」中山文書)

中村郷
なかむらごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。加賀国石川郡の中村郷には、「奈加無良」(東急本)と訓が付されており、当郷も「なかむら」としてよかろう。郷域について、「大日本地名辞書」は、現名古屋市中村区一帯にあてる。「日本地理志料」は「尾張志云、中村郷廃、上中村、下中村存、按図亘稲葉地、烏森、岩塚、称一揚、亘日比津、高畑、中島、牧野、米野、北一色、高須賀、称則武、是其地也」と述べ、現中村区一帯から中川区の一部に及ぶ地域に比定する。

中村郷
なかむらごう

[現在地名]小値賀町中村郷

小値賀島のほぼ中央部にあり、内陸部の中村前目なかむらまえめ中村後目なかむらうしろめ、南の海岸部の舟瀬ふなせ(船瀬)の三集落がある。舟瀬に須恵器・青磁のほか、中世の輸入陶磁器を出土する船瀬遺跡がある。また地頭の肥前守源定が建武元年(一三三四)役牛の供養のため建立した牛の塔などがあり、三行の陰刻文字がみえる。当時二つの島であった小値賀の間を埋立てて田地を開く普請を行ったが、潮流が激しく難工事で使役牛が数多く犠牲になったため、竣工した建武元年に一字一石経を舟瀬の浜に埋納し、その上にこの供養碑を建立したという。前目にこのとき造成したという新田につたや、松浦氏との関連が推定されている中世の膳所ぜぜ城跡、南北朝期より室町期にかけての阿弥陀三尊仏板碑などが残される。

中村郷
なかむらごう

安田やすだ庄を構成する五ヵ郷の一つ。現なか奥中おくなかの天神社を産土神とする現中町中村町・茂利しげり・奥中・徳畑とくばた地域に比定される。永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案(九条家文書、以下断りのないものは同文書)によると、中村郷は五月に領家九条家御所大番役が割当てられている。延慶二年(一三〇九)一一月八日の九条忠教遺誡によれば、当郷は大納言入道後室が知行している。応永三年(一三九六)四月日の九条経教遺誡では当郷は料所(室町幕府料所か)とある。中村郷年貢のうち一千五〇〇疋(一五貫文)は三歳の若君(九条満家)養育料に充てられている(同年一二月二五日九条忠教遺誡)

中村郷
なかむらごう

「和名抄」刊本・高山寺本ともに「中村」と記す。「日本地理志料」に「風土略記、中村郷廃、今中村存」とみえる。中村は現雄勝郡雄勝町あきみや地内の役内やくない川に沿う大字にある。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「日本地理志料」は現川本かわもと町の本田ほんだ畠山はたけやまとその周辺とし、「大日本地名辞書」は式内社小被をふすまの神社」のある現寄居よりい町の富田とみだを中心とする一帯とする。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「日本地理志料」は現神川かみかわ町の丹荘たんしようから上里かみさと町の七本木しちほんぎの地に想定し、同町のつつみにある熊野社を式内社「今木青坂稲実荒御魂神社」と推定している。「大日本地名辞書」もこの地域に含まれる同町の安保あぼは式内社賀美郡四座のうち三座に冠される青が後世転訛したものとする。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」所載の郷。東急本に「奈加无良」、刊本に「奈加無良」と訓ずる。郷域は、近世の中村郷の範囲をそのままあてはめて現金沢市の西端から現松任まつとう市にかけての地域を想定する説(「三州地理志稿」「加賀志徴」など)と、現松任市市街地や南西郊の村井むらい町付近までを含める説(日本地理志料)がある。後者の説に立てば、手取川扇状地の扇央部、松任市域の中央部から東部にかけての地区が郷域となる。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「奈加牟良」と訓を付す。天平七年(七三五)閏一一月一〇日の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)光明皇后の食封として余綾郡中村郷五〇戸、田一六七町一反一〇七歩とみえる。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、ナカムラであろう。正倉院調庸関係緋櫃綱布心銘文(正倉院宝物銘文集成)に「瑳□□村郷戸主□□□」とみえ、中村郷と読みうる。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。郷域未詳。「続日本紀」宝亀五年(七七四)一〇月三日条に葛下郡国中くになか村がみえるが、中村郷との関係・所在ともに未詳。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」に「中村」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、中村今現存ス」とあり、現鹿島郡大野村なかに比定する。

中村郷
なかむらごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「風土記稿」以下、現秩父市の中村にあてている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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