船渡村(読み)ふなとむら

日本歴史地名大系 「船渡村」の解説

船渡村
ふなとむら

[現在地名]会津坂下町高寺たかてら

只見ただみ川が南から西に迂回しながら北流する右岸にあり、南の対岸片門かたかど村、東は鐘撞堂かねつきどう峠に連なる丘陵山地、北東くぼ村がある。村名は越後街道が只見川を渡る渡船場だったことによる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に舟渡とあり、高一五二石余で、「此内九十五石三斗五升川ヲシ荒」と注記される。坂下組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高三七九石余。化政期の家数五七(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数五〇(寺二)・人数二六二(人員録)


船渡村
ふなとむら

[現在地名]越谷市船渡

平方ひらかた村の南、大泊おおどまり村の東に位置し、東は古利根川で限られる。集落は古利根川と旧あいの川の自然堤防上に連なる。地名は利根川の渡船場であったからといわれる。寛永六年(一六二九)の大松清浄院領検地(清浄院文書)に舟戸村とみえ、清浄しようじよう院領があった。田園簿によると高は田方三九六石余・畑方一七三石余、幕府領。元禄八年(一六九五)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高七六一石余、ほかに当村枝郷福島ふくしま新田(高六九石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領)が記される。


船渡村
ふなとむら

[現在地名]朝日町たま 舟渡ふなと

蛇行する最上川左岸にあり、西は栗木沢くりきさわ村。正保郷帳舟渡村とあり、田方六八石余・畑方一九石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。里分川行かわつら組に属し、宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)には高八八石余、家数一三・人数六二とある。天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(同委員会蔵)によれば本高八八石余の船渡村が記され、高七石余、田二反余で、「此村私領船渡村持添にて、民家なし」と記される。


船渡村
ふなとむら

[現在地名]鹿瀬町豊実とよみ

菱潟ひしがた村の南東、阿賀野川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「舟渡 実川 弐百七十七石九斗五升 御倉入」とあり、蒲生氏直轄領であった。元禄郷帳に船渡村として高一一三石八斗余。「津川旧記」に元和六年(一六二〇)の漆木役二千四四五本九分とある。


船渡村
ふなとむら

[現在地名]新宮町船渡

揖保川の右岸、觜崎はしさき村の北西に位置し、揖東いつとう郡に属した。江戸時代初期は觜崎村の一部であった。正保郷帳に村名がみえ、田方三二石余・畑方七石余で、林田藩領。同藩領になってから分村したものと思われ、同藩領のまま幕末に至る。天保郷帳では橋崎村枝郷と注記され、高一〇三石余。旧高旧領取調帳では觜崎村に含まれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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