若松湊・若松港
わかまつみなと・わかまつこう
〔若松湊〕
近世に洞海湾の入口に形成された湊。穀物・商人荷物・旅客などを長門・豊前や上方方面へ移出する渡し口として発展した(続風土記)。長門赤間関(現山口県下関市)まで海上五里、豊前小倉へは同二里、芦屋湊(現芦屋町)までは同五里(続風土記拾遺)。幕府の巡見使一行も九州に下向する際は、まず当湊に上陸・宿泊し、帰路は黒崎湊(現八幡西区)から当湊に渡り、休息ののち帰途につくのが習いであった(「続風土記附録」「北九州市史」など)。黒田長政は筑前に入部すると、中島(現戸畑区)に若松城を築いて船手衆筆頭の三宅家義を置き、対岸にあたる当地には船手衆を配して船頭町が形成された。当湊の船は福岡藩の成立当初から貢米の大坂積登せに従事していたが、寛永一八年(一六四一)に黒田忠之に肥前長崎警備が命じられたのを契機に、当湊に配されていた藩船は福岡に移され、その後は貨物(穀物)輸送を主体とする湊になった。しかし急用や大坂との連絡に備えて、飛船が置かれた。正徳元年(一七一一)当湊出入りの米穀諸雑貨の出入り取締のため、崎前(渡場の前)に洲口番所が設置されている(「北九州市史」など)。文政(一八一八―三〇)頃には船手の家は四〇余戸であった(続風土記拾遺)。
慶安四年(一六五一)三月に郡代浜田作兵衛・黒崎代官三毛門喜左衛門・若松代官山路薩摩ら五名が連署した御証拠之写によると、当湊と黒崎湊は競合関係にあったことがうかがえ、宝永六年(一七〇九)には若松代官木村善兵衛と黒崎代官大島治右衛門が相談のうえ、洞海湾での海上輸送は荷物・旅人の積送りは黒崎湊で行うこと(ただし穀物は積んではならない)、穀物は若松船に積むこと(ただし、ついでの積荷を積む場合は黒崎で押えてはならない)、漁猟はこれまでどおり共同で自由にすることなどが定められた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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