デジタル大辞泉
「中村正直」の意味・読み・例文・類語
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なかむら‐まさなお【中村正直】
- 洋学者、教育家。江戸の人。号敬宇。佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を学ぶ。昌平黌教授方、甲府徽典館学頭、東京帝大教授などを歴任。慶応二年(一八六六)英国に留学。西周、神田孝平らと「明六社」を組織し、文明開化と啓蒙思想の普及に努めた。訳著「西国立志編」「自由之理」など。天保三~明治二四年(一八三二‐九一)
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中村正直 (なかむらまさなお)
生没年:1832-91(天保3-明治24)
明治前半期の啓蒙思想家・教育家,文学者。号は敬宇。江戸麻布に生まれ,昌平坂学問所に学び,その教授となり,1855年(安政2)ころより英学を学びはじめた。62年(文久2)異例の若さで儒官となり,66年(慶応2)幕府の英国留学生取締役を命ぜられイギリスに留学。68年(明治1)幕府瓦解により帰国し,静岡学問所の教授となった。翌年静岡北郊の大岩村の屋敷に私塾同人社を営んだ。そのころよりサミュエル・スマイルズの《Self Help》を訳しはじめ,71年《西国立志編》として刊行し,72年にはジョン・スチュアート・ミルの《On Liberty》を《自由之理》として訳刊した。前者は近代国家形成期の広範な明治青年の精神的よりどころとなって愛読され,後者はとくに青年知識人の必読書となり,河野広中は本書によって自由民権思想に目が開かれたというほど,両書は強い影響を与えた。上京して,73年小石川の邸内に英学塾を設立し,引き続き同人社と称し,76年《同人社文学雑誌》を創刊した。この間明六社の結成に参加し,《明六雑誌》に〈西学一斑〉以下5編を寄稿し,啓蒙思想の普及に努めた。81年東京大学教授となり漢学を担当した。86年元老院議官となり,90年東京女子高等師範学校長を兼任し,貴族院議員に勅選された。教育勅語の草案中,文部省案を芳川顕正文相の委嘱により作成したが,宗教的・哲学論的性格が強いとして井上毅によって批判された。温厚篤実な人格者としてその感化力も大きく,序文を寄せた書物が200冊以上あるといわれ,没後《敬宇文集》(1903),《敬宇詩集》(1926)が刊行されている。
執筆者:佐藤 能丸
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中村 正直
ナカムラ マサナオ
- 本名
- 中村 敬太郎
- 別名
- 号=中村 敬宇(ナカムラ ケイウ) 幼名=釧太郎 敬輔 諱=正直
- 生年月日
- 天保3年5月26日(1832年)
- 出生地
- 江戸・麻布円波谷
- 学位
- 文学博士(東京帝大)〔明治21年〕
- 経歴
- 幼少から漢学を学び、嘉永元年昌平坂学問所で儒学を修めた。安政2年学問所教授方、4年勤番として甲府徽典館教頭、同年儒者勤向見習、文久2年儒官。慶応2年俊秀少年12人の英国留学監督としてロンドン滞在、明治元年帰国、将軍徳川家達の知事移封に従い静岡学問所教授。5年大蔵省翻訳御用、6年小石川に私塾同人社を設立、さらに福沢諭吉らと明六社を設立、「明六雑誌」を発行。8年東京女子師範学校摂理嘱託、9年盲人教育のため盲訓院を設立、10年東京帝大文学部教授嘱託、14年同教授、19年元老院議官、23年女子高等師範学校長兼任、同年貴族院議員。その間小石川区議、東京市議を務めた。著書に「敬宇文集」「敬宇詩集」、自伝代わりの「自叙千文字」、翻訳に「西国立志編」「自由之理」「西洋品行論」など。
- 受賞
- 勲三等〔明治24年〕
- 没年月日
- 明治24年6月7日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
中村正直
なかむらまさなお
(1832―1891)
儒者、啓蒙(けいもう)思想家。江戸麻布丹波谷(あざぶたんばだに)(現、東京都港区六本木)に御家人(ごけにん)の子として生まれる。幼名は釧太郎(せんたろう)、長じて敬輔(けいすけ)と称し、敬宇(けいう)と号す。昌平黌(しょうへいこう)に学び朱子学を修めた。1866年(慶応2)イギリスに留学。ロンドンで、儒教道徳が完璧(かんぺき)に実現されているのをみて、その根底にあるキリスト教への関心を深めた。1868年(明治1)帰国し、静岡に移った。ここで、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』の翻訳『西国立志編(さいごくりっしへん)』を出版して青年たちに多くの感化を与えた。1872年東京に移り、大蔵省翻訳局に出仕した。翌1873年、明六社(めいろくしゃ)の創立に参画し、また同人社を設立し教育にあたった。1874年キリスト教の洗礼を受けるが、明治10年代に入ると、儒教の復活を主唱するようになった。晩年に至るまで、女子教育や障害者教育に尽力した。東京大学教授、元老院議官、女子高等師範学校校長、貴族院議員などを歴任した。
[渡辺和靖 2016年9月16日]
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中村正直
没年:明治24.6.7(1891)
生年:天保3.5.26(1832.6.24)
啓蒙思想家,教育者。二条城交番同心中村武兵衛の長男。江戸麻布(港区麻布狸穴付近)に生まれる。諱 は正直,号は敬宇。16歳で昌平黌に入り,教授方を経て文久2(1862)年佐藤一斎の後を継いで御儒者となった。昌平黌寮で彼の机の前の畳が目立ってくぼんでいたほど,日夜勉学に励んだという。慶応2(1866)年江戸幕府留学生の取締役として英国に留学し,キリスト教が英国の政治,社会,経済の根幹をなしているとみた。帰国後S.スマイルズの『西国立志編』(1871),J.S.ミルの『自由之理』(1872)を訳出し,明治初期の啓蒙に大きく貢献した。当時禁止されていたキリスト教の宣教の自由を主張し,明治6(1873)年キリスト教の黙許を政府から引き出すのに貢献し,7年には自らもカナダのメソジスト派宣教師G.カックランの手で洗礼を受け,キリスト教の宣教に積極的に参加した。8年東京女子師範学校長となり,さらに東京の小石川に私塾同人社を開校し社内でキリスト教の礼拝を行い,また女子教育課程を加えた。また盲人教育にも力を尽くした。14年東大教授。17年頃からユニテリアン派キリスト教へ傾き,晩年には仏教者との交際を深めて仏教と儒教を融合する心境に達した。文学博士,貴族院勅選議員。<著作>『請質所聞』,『敬宇日乗』全8巻,『敬宇文集』『敬宇詩集』<参考文献>高橋昌郎『中村敬宇』,萩原隆『中村敬宇研究』,小泉仰『中村敬宇とキリスト教』
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中村正直【なかむらまさなお】
幕末〜明治初の啓蒙思想家,文学者,自由民権思想の紹介者。通称は敬輔,号は敬宇。江戸の人。儒学を佐藤一斎,蘭学を桂川甫周(国興)に学ぶ。1866年―1868年英国に留学。1871年―1872年にミルの《自由之理(じゆうのことわり)》,スマイルズの《西国立志編》を翻訳,青年層に新思想を普及した。1881年帝大教授,1890年東京女高師校長となった。また,英人ホールドらと訓盲唖院を建設するなど,女子・盲唖教育に貢献した。漢詩文集に《敬宇詩集》《敬宇文集》など。→明六社
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中村正直
なかむらまさなお
[生]天保3(1832).5.26. 江戸
[没]1891.6.7. 東京
洋学者,明治初期の啓蒙思想家。通称敬輔,号は敬宇。昌平坂学問所で漢学を修め,かたわら桂川国興から蘭書を学んだ。安政2 (1855) 年学問所教授方出役,文久2 (1862) 年幕府儒者に列した。慶応2 (1866) 年幕府のイギリス留学生取締りとして渡欧。帰国後ジョン・スチュアート・ミルの『自由之理』,サミュエル・スマイルズの『西国立志編』を翻訳刊行して新思想を紹介,当時の青年を感奮させた。明治1 (1868) 年徳川慶喜に従って静岡に移り,静岡学問所教授。在職中アメリカ人宣教師 G.カクランにより受洗。明治5 (1872) 年新政府の召命に応じ上京,大蔵省翻訳御用。 1873年自邸に洋学塾「同人社」を開き,同年明六社の社員となった。 1875年岸田吟香,津田仙らと「楽善会」を組織して東京築地に訓盲唖院を設立。新政府の教育政策にも協力し東京女子師範学校摂理 (1875) ,東京大学教授 (1881) ,女子高等師範学校長 (1890) などを歴任。晩年は元老院議官,貴族院議員。漢詩文集に『敬宇詩集』『敬宇文集』がある。
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中村正直 なかむら-まさなお
1832-1891 幕末-明治時代の教育者,啓蒙(けいもう)思想家。
天保(てんぽう)3年5月26日生まれ。昌平黌(しょうへいこう)でまなび,文久2年幕府儒官となる。明治4年S.スマイルズの「西国立志編」,5年J.S.ミルの「自由之理」を翻訳し,新思想を紹介した。14年東京大学教授,23年女子高等師範(現お茶の水女子大)校長。貴族院議員。明治24年6月7日死去。60歳。江戸出身。幼名は釧太郎。通称は敬輔。号は敬宇。
【格言など】読書は,徒(いたず)らに多きを貴ばざるなり(「漢学不可廃論」)
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中村正直
なかむらまさなお
1832.5.26~91.6.7
幕末~明治期の教育家。幕臣の子として江戸に生まれる。敬輔,号は敬宇。昌平黌(しょうへいこう)に学んで幕府儒員となる。蘭学・英学を志し,幕府遣英留学生の監督として渡英。維新後は静岡に移り,「西国立志編」「自由之理(ことわり)」を訳出して刊行。1872年(明治5)上京して大蔵省に出仕。翌年同人社を開塾し,また女子教育・盲唖教育にも尽力。明六社創立員・東京大学教授・元老院議官などとして活動した。東京学士会院会員。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
中村正直
なかむらまさなお
1832〜91
明治時代の教育者・啓蒙家
号は敬宇 (けいう) 。幕臣出身。江戸の生まれ。昌平坂学問所に学び,イギリスに留学。帰国後,私塾同人社を開き,明六社創立に参画。のち訓盲啞院を設け,東大教授・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長を兼ねた。著書に訳書『西国立志編』(スマイルズ)・『自由之理』(ミル)など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の中村正直の言及
【教育勅語】より
…首相山県有朋は〈[軍人勅諭]〉(1882)の発布によって軍隊の思想統制に成功した経験から,教育にも同様の勅諭がほしいとの考えをもっており,文部省にその草案作成を命じた。はじめ文部省は帝国大学教授中村正直に草案執筆を委嘱したが,完成した草案の哲学論的・宗教論的色彩を法制局長官井上毅に批判され,この草案はしりぞけられ,この井上が山県の要望にこたえて草案を起草した。中村案,井上案とは別に案を起草していた元田永孚も,井上案ができるやこれに意見を述べ,結局井上案が基礎となり,細部にまで検討が加えられ練り上げられ,第1回帝国議会開会直前に発布にこぎつけたのである。…
【西国立志編】より
…イギリスの社会思想家[S.スマイルズ]の《Self‐Help》(1859)を[中村正直]が1871年(明治4)に翻訳出版した書物11冊。勤勉,忍耐,節約といった美徳を涵養して人生を切り開くことを説く。…
【自由之理】より
…明治初年の啓蒙的翻訳書。原書はイギリス功利主義の思想家[J.S.ミル]の《On Liberty》(1859)で,中村正直が1871年(明治4)に翻訳し,翌年刊行された。中村の人格・学識と相まって,明治前半の青年知識人の必読書となった。…
※「中村正直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」