日本に最初にきたイギリス人とされるウィリアム・アダムズWilliam Adamsの別称。少年期造船所に勤め、やがて水先案内となる。イギリス艦隊に船長として従事したのち、オランダに渡り、1598年司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、1600年4月19日(慶長5年3月16日)豊後臼杵(ぶんごうすき)湾の佐志生(さしう)(大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺(さかい)より関東の浦賀に回航した。かねてから関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ)(神奈川県横須賀(よこすか)市)に知行地(ちぎょうち)を給した。三浦按針の名はこのようにして生まれた(按針とはパイロット=水先案内の意)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステンとともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学、幾何学の初歩を教授するほか外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ、イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことは有名である。彼はイギリス人ながらイギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)6年4月24日、55歳肥前平戸(ひらど)で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられ、逸見に近い塚山公園にある(国指定史跡)。
[箭内健次]
『『三浦按針』(金井圓編『岡田章雄著作集5』1984・思文閣出版)』
(春名徹)
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…徳川家康の外交顧問。日本名三浦按針。イギリスのジリンガムに生まれ,ライムハウス造船所に12年間勤めた後,イギリス海軍に船長として勤務。…
…その理由は,南方諸地域において日本の朱印船を排除する空気が強く,国際間の紛争も発生しており(台湾事件,シャムのアルカラーソ事件,シャムの山田長政毒殺やアユタヤ焼打ち事件など),それにキリスト教の取締りの強化や,日本からの武器輸出禁止,さらに偽造朱印状の横行などの問題があったからである。以後,奉書船貿易家の中心は末吉孫左衛門,平野藤次郎,角倉素庵(与一),末次平蔵,茶屋四郎次郎,橋本十左衛門と三浦按針(2世)の7人が主となり,この7人は豪商というよりは7人の侍,すなわち代官か代官に準ずる立場に属していた。【中田 易直】。…
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