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三浦按針 みうらあんじん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三浦按針
みうらあんじん

「アダムズ,W.」のページをご覧ください。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

三浦按針

1600年、オランダ船「リーフデ号」で大分県臼杵市に漂着した。徳川家康から外交顧問として重用されると、神奈川県に領地を与えられ、旗本になった。オランダと英国の貿易船通航許可や平戸への商館設置を仲介した。平戸にも居を構え、平戸英国商館が設置されると商館員として勤務した。英国への帰国はかなわないまま、1620年に死去した。

(2013-09-25 朝日新聞 朝刊 長崎全県 2地方)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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デジタル大辞泉の解説

みうら‐あんじん【三浦按針】

[1564~1620]日本へ来た最初の英国人といわれるウィリアムアダムズ(William Adams)の日本名。オランダ船リーフデ号の水先案内人として慶長5年(1600)豊後(ぶんご)に漂着、外交顧問として徳川家康に仕え、相模三浦郡に所領を与えられた。

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百科事典マイペディアの解説

三浦按針【みうらあんじん】

アダムズ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三浦按針 みうら-あんじん

1564-1620 イギリスの航海士。
1564年9月24日生まれ。慶長5年(1600)豊後(ぶんご)(大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の水先案内人。徳川家康の外交顧問となり,相模(さがみ)(神奈川県)三浦郡に領地をあたえられた。洋式帆船の建造,イギリスとの通商開始に尽力。元和(げんな)6年4月24日平戸で死去。55歳。日本人妻とのあいだに2子があった。本名はウィリアム=アダムズ(William Adams)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

三浦按針

没年:元和6.4.24(1620.5.26)
生年:1564.9.24
安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加,慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着したフィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていたイギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。

(春名徹)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

みうらあんじん【三浦按針】

アダムズの日本名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三浦按針
みうらあんじん
(1564―1620)

日本に最初にきたイギリス人とされるウィリアム・アダムズWilliam Adamsの別称。少年期造船所に勤め、やがて水先案内となる。イギリス艦隊に船長として従事したのち、オランダに渡り、1598年司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、1600年4月19日(慶長5年3月16日)豊後臼杵(ぶんごうすき)湾の佐志生(さしう)(大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺(さかい)より関東の浦賀に回航した。かねてから関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ)(神奈川県横須賀(よこすか)市)に知行地(ちぎょうち)を給した。三浦按針の名はこのようにして生まれた(按針とはパイロット=水先案内の意)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステンとともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学、幾何学の初歩を教授するほか外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ、イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことは有名である。彼はイギリス人ながらイギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)6年4月24日、55歳肥前平戸(ひらど)で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられ、逸見に近い塚山公園にある(国指定史跡)。[箭内健次]
『『三浦按針』(金井圓編『岡田章雄著作集5』1984・思文閣出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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世界大百科事典内の三浦按針の言及

【アダムズ】より

…徳川家康の外交顧問。日本名三浦按針。イギリスのジリンガムに生まれ,ライムハウス造船所に12年間勤めた後,イギリス海軍に船長として勤務。…

※「三浦按針」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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