萩野村(読み)はぎのむら

日本歴史地名大系 「萩野村」の解説

萩野村
はぎのむら

[現在地名]香北町萩野

物部ものべ川支流萩野川を仮屋野かりやがの村より一キロほどさかのぼった山間の小村。南方上流は岩改いわかい村。西方へ明戸あかりど峠を越えると山田やまだ佐古藪さこやぶ(現土佐山田町)。明戸峠は明治後期、物部川南岸沿いに県道(現国道一九五号)ができるまで山田(現土佐山田町)赤岡あかおか(現赤岡町)方面へ通じる陸上交通の要路であった。谷間から山裾へかけて緩やかに傾斜した土地は用水も得やすく、開発の歴史は古い。

中世以来の開発領主に萩野氏がおり、その子孫が伝えた文治二年(一一八六)二月二二日付の萩野解祐太夫宛の安堵状(萩野文書)に「可早領知名主職事、右当名者依(ママ)代相伝相違安堵者也」とあるが、発給者名も、「右当名」とある肝心の名も欠ける。萩野氏系図(「香北町史」所収)は、萩野氏の祖先織部は永正年間(一五〇四―二一)京都より下向来住したとも記す。


萩野村
はぎのむら

[現在地名]新庄市萩野・昭和しようわ

現新庄市の北東部。奥羽山脈から流れ出る北から土内つちうち川・小以良こいら川・大以良おおいら川が新庄盆地に出て泉田いずみた川に流入する。片平かたひら館の館下集落として計画的につくられたとみられる。館の麓に東西方向の道を設け、これに沿って人家を配し、またこれに直交して南北方向の道を走らせている。東西方向の中央の道を大宿おおしゆく山手の道を土手宿どてしゆく、南の道を小宿こしゆくとよんでいる。さらに集落東端に宝蔵寺(明治初年廃寺)同じく西端に宝積ほうしやく寺を配し、村の固めとしている。新田本村鑑では枝村として吉沢よしざわ黒沢くろさわ中村なかむら仁田山にたやま二枚橋にまいばし・櫃打(土内)・ほど沢(朴沢)赤坂あかさかが記されている。

元和八年(一六二二)の御前帳写では高一千一八八石余。寛文四年(一六六四)も同高で、ほかに泉田村分の五四一石余が記される(新田本村鑑)


萩野村
はいのむら

[現在地名]芸濃町萩野はぎの

安濃あのう川の左岸、川を隔てて神山こやま村の東に位置する。ほとんど平坦地で東部に小丘陵が起伏する。「神鳳鈔」に「萩野御薗一反半」とある。また「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に「三月公卿勅使駅家雑事、伊勢国地頭御家人等多以対捍之間、召在庁等注進状被下之」とあり、その勤めを果している数少ない荘園のなかに「荻野庄一方次官、一方中村蔵人」と出る。荻野は萩野の誤記と思われる。


萩野村
はぎのむら

[現在地名]白鷹町萩野

十王じゆうおう村・滝野たきの村の北に位置し、おもな集落は南北に走る狐越きつねごえ街道や南西流する荒砥あらと川支流萩野川に沿う。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高三〇〇石余、免三ツ九分、家数一六(うち役家五、肝煎・小走二)・人数一一八、役木として漆・桑・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。寛永一四年(一六三七)の検地帳写(十王地区公民館蔵)によれば高一千二七八石余、うち寛永二年新開分が三四石余、同三―一四年までの新開が八四石余と、開発が進展している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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