蓮華院跡
れんげいんあと
平安末期に開かれた寺院。もとは太政大臣藤原実行の邸宅。「山槐記」永暦元年(一一六〇)一二月四日条に「入道前太政大臣亭八条北万里小路西」とあり、現京都市下京区西之町付近にあたる。しかし「拾芥抄」東京図には梅小路・万里小路・針小路・高倉で囲まれた方二町に「太政大臣実行家」「実行亭」の記載があり、これなら現同市南区東九条西岩本町も含む。なお「坊目誌」は東塩小路村(現下京区)にしているが誤りであろう。藤原実行は権大納言公実の次男、久安六年(一一五〇)太政大臣となり、永暦元年(一一六〇)正月に出家、応保二年(一一六二)没。
蓮花院跡
れんげいんあと
[現在地名]桶川市坂田
金花山護摩堂寺と号した羽黒派修験で、天台宗行人派。江戸音羽普門院配下であった。「風土記稿」には文明年間(一四六九―八七)の古碑が境内にあると記すが、開創の時期等は不明。当院持の護摩堂沼は元和年中(一六一五―二四)に開墾され、舎人新田となったという(同書)。中世には羽黒派修験は独自の教団を形成していたが、江戸初期には天台宗の支配下に組入れられた。承応二年(一六五三)武蔵国中足立郡のうち「鹿山郷・川田谷村」を除いた地域の錫杖頭に任命され、在地の修験を統轄した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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