日本歴史地名大系 「薪庄」の解説
薪庄
たきぎのしよう
当荘の西北方に興福寺領
すなわち、薪・大住両荘の用水相論が興福寺・石清水という二大権門の確執に発展し、宣旨が六波羅に下ったことを六波羅が幕府に伝え、幕府が実検の指令を送り返したわけである。この争乱は朝廷・幕府を巻き込み、翌二年一一月まで執拗に繰り返された。なお「兼仲卿記」紙背文書(岩崎文庫蔵)にこの相論関係のものがあり、年次不詳の石清水八幡宮護国寺所司等解に「当園者、依有山
争乱の経過は、嘉禎元年五月―一〇月、同年一二月―嘉禎二年三月、同年七月―一一月の三時期に分けられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報