薪庄(読み)たきぎのしよう

日本歴史地名大系 「薪庄」の解説

薪庄
たきぎのしよう

木津きづ(現相楽郡木津町)から淀(現京都市伏見区)にかけて、北北西に流れる木津川西岸甘南備かんなび山山麓にあった石清水いわしみず八幡宮領の荘園。薪園ともよばれる。近世の薪村の地に比定される。保元三年(一一五八)一二月三日付石清水八幡宮ならびに宿院極楽寺宛官宣旨(石清水文書)に、宮寺領として「薪庄」の名がみえる。

当荘の西北方に興福寺領大住おおすみ庄があり、鎌倉期、両荘間に激烈な紛争が展開した。「吾妻鏡」嘉禎元年(一二三五)五月一六日条に、石清水別当幸清が山城薪庄ほかに守護人を置くことを幕府に請い、下総守源保茂が補任された記事がみえるが、さらに同二三日条には次のように記されている。

<資料は省略されています>

すなわち、薪・大住両荘の用水相論が興福寺・石清水という二大権門の確執に発展し、宣旨が六波羅に下ったことを六波羅が幕府に伝え、幕府が実検指令を送り返したわけである。この争乱朝廷・幕府を巻き込み、翌二年一一月まで執拗に繰り返された。なお「兼仲卿記」紙背文書(岩崎文庫蔵)にこの相論関係のものがあり、年次不詳の石清水八幡宮護国寺所司等解に「当園者、依有山(水カ)之便、為廿四節二季御神楽燎料所、村上御宇被寄進間、重役異他之地也」とみえる。

争乱の経過は、嘉禎元年五月―一〇月、同年一二月―嘉禎二年三月、同年七月―一一月の三時期に分けられる。

〔第一期〕

明月記」嘉禎元年六月三日条によれば、興福寺衆が八幡を襲撃するとの雑説があり、六波羅から武田信政・宇都宮泰綱らがはせ向かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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