薬王寺村(読み)やこうじむら

日本歴史地名大系 「薬王寺村」の解説

薬王寺村
やこうじむら

[現在地名]嬉野町薬王寺

中村なかむら川の下流右岸南方の丘陵谷間に位置し、八田はつた村の南東にあたる。村内を大谷おおたに川が流れ、しもしよう村の北で中村川に注ぐ。村名は、薬王寺が所在したことによるという(五鈴遺響)。小字名に柿木垣内かきのきがいとみやノ垣内・八郎はちろう垣内・土田どだ垣内・あぶら垣内があり、中世の開発がうかがわれる。文禄検地帳(徳川林政史蔵)には田畑屋敷合せて四三町四反二畝、石高五七三・四二石とある。元和五年(一六一九)和歌山藩松坂領となり、下ノ庄組に属した。


薬王寺村
やくおうじむら

[現在地名]津市片田薬王寺かただやくおうじ

久保くぼ村の西、一志層群丘陵の谷の最奥にある。薬王寺の寺号が村名となり、「やこうじ」ともいう。文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳では「片田村」に含まれ、慶長一三年(一六〇八)から津藩領、元禄一〇年(一六九七)久居藩領となる。慶安郷帳(明大刑博蔵)に「薬王寺村」と独立して記され、高三二六・五七石、慶安元年(一六四八)の平高は四九八・〇一七石、寄人足は一八人であった(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)

伊賀街道前田まえだ宿の人足として、元治元年(一八六四)近郷雇牛馬打上奉願控(永谷家文書)によれば、一年間八五人があげられている。


薬王寺村
やくおうじむら

[現在地名]古賀市薬王寺

西にし山の西麓に位置し、南は小山田おやまだ村。正平二一年(一三六六)四月日付執行成貞注文(石清水文書/南北朝遺文(九州編)四)によれば、若宮仮殿御遷宮饗膳米として薬王寺に二斗が賦課されている。このとき当地は預所為元の管理下にあった。応永五年(一三九八)の恵通寺合戦における戦功により、七月二〇日「米多比・薦野・薬王寺」は宗像大宮司(宗像氏経)に預けられた。しかし同一二年米多比・薦野・薬王寺の三氏は今後大宮司に属して行動する旨を誓約していることから、当地は薬王寺氏に返還されたと思われる(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)。宝徳二年(一四五〇)一月二六日、筥崎宮の本家山城石清水いわしみず八幡宮祀官家田中門跡は薬王寺村の知行を箱崎伊豆兵衛入道道悦にゆだねた(「法眼永実奉書」田村文書/筥崎宮史料)


薬王寺村
やくおうじむら

[現在地名]但東町薬王寺

地元では「やこうじ」とも発音する。久畑市場くばたいちば村の北東出石川の支流薬王寺川の流域山間を占める。神懸かんがけ峠の麓にあたり、当地で出石・福知山道から分岐して同峠を越える道は丹波国天田あまた雲原くもばら(現京都府福知山市)に通じた。また北の薬王寺峠を越える山道は奥赤花おくあかばな村に至った。地名は大生部兵主おおいくべひようす神社の別当寺であった薬王寺(現廃寺)伽藍を構えていたことに由来する。近世領主変遷水石みずし村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二八三石余。


薬王寺村
やくおうじむら

[現在地名]いわき市四倉町薬王寺よつくらまちやくおうじ

仁井田にいだ川中流にあり、東は山田小湊やまだこみなと村、南は下柳生しもやぎゆう村、北は八茎やぐき村。薬王寺があるための村名。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高一五八石余、うち一〇〇石は薬王寺領。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高一三三石余。


薬王寺村
やくおうじむら

[現在地名]田原本町大字薬王寺

田原本の西に位置。村名は中世にあった薬王寺にちなむ。伊多いおう(鏡作伊多神社にちなむ名か)に医王の文字を使用、医王寺が薬王寺に転じたと伝える。「磯城郡誌」には「蓋し此地は元イオホと呼ひしを訛りてイワウと云ひ、(中略)即ち此地方は古昔の伊王と称へし地にして下の庄の如きは所謂伊多辺の地たりしを知るに足る」とみえる。

慶長郷帳の村高は九〇六・五二石で、交代寄合の平野氏領。初代の長泰は入部せず、二代長勝は寛永五年(一六二八)薬王寺村の藤井氏邸を陣屋とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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