延寿山教王院と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。享保一四年(一七二九)第二二世円胤の記した「延寿護法録」によると、仁寿(八五一―八五四)の初め
文安二年(一四四五)下総国
日和佐街区の西方にある。高野山真言宗。医王山無量寿院と号する。本尊は薬師如来。四国霊場八十八ヵ所の第二三番札所で、御詠歌は「みな人のやミぬるとしのやく王寺るりのくすりをあたえまします」(四国遍礼道指南)。弘仁六年(八一五)空海の開創と伝え、天長七年(八三〇)堂宇を修復し、三度の攘厄会を行ったという。天永年間(一一一〇―一三)宥山が中興。貞治五年(一三六六)細川頼之が大檀越となって修造がなり、導師は宥海であったという(文化六年「薬王寺来由記」寺蔵文書)。応安元年(一三六八)細川氏の家臣宇佐平太左衛門尉が当寺に参籠して攘厄会を修して効験があったので、寺領五〇〇石の寄進があったとも伝える(日和佐郷土誌)。
「陰徳太平記」に「かくて義隆卿法泉寺を出で給ひて、
薬光寺の地名は、明治維新で萩の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
徳島県海部(かいふ)郡美波(みなみ)町奥河内寺前にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の寺。医王山無量寿院と号する。本尊は薬師如来(にょらい)。四国八十八か所第23番札所。815年(弘仁6)空海が42歳の厄除(よ)けのため薬師如来像を刻み、伽藍(がらん)を建立して安置したのに始まると伝える。その後たびたび火災にあったがそのつど復興された。1188年(文治4)の火災のとき本尊自ら今の奥之院(玉厨子(ぎょくずし)山)に飛び移った。のち後鳥羽(ごとば)院は堂宇を再建するとともに新たに薬師像をつくったところ前の本尊が戻ったといわれ、現在は本尊が二体ある。女厄坂、男厄坂の石段があり、厄年の男女が多く参詣(さんけい)する。
[祖父江章子]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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