日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原仲麻呂の乱」の意味・わかりやすい解説
藤原仲麻呂の乱
ふじわらのなかまろのらん
奈良時代の反乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。760年(天平宝字4)の光明皇太后(こうみょうこうたいごう)死後、道鏡(どうきょう)を寵愛する孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂(恵美押勝)が擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至る。764年、仲麻呂は太上天皇に申請して都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使(ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)となり、管内の兵士の召集・簡閲(観閲)を認められた。しかしその数の改竄(かいざん)が発覚し、天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印(れいいん)を太上天皇側に奪われ、近江へ逃走する。道中で塩焼王(しおやきおう)を偽立して今帝(きんてい)としたが、追撃を受け、近江国高島郡勝野鬼江(かちののおにえ)で斬殺された。乱後、淳仁天皇は淡路(あわじ)に幽閉され、孝謙太上天皇が称徳天皇(しょうとくてんのう)として重祚(ちょうそ)する。
[川敏子]
『岸俊男著『藤原仲麻呂』新装版(1987・吉川弘文館)』▽『栄原永遠男編『平城京の落日』(2005・清文堂出版)』