第47代天皇(在位758~764)。天武(てんむ)天皇の孫。舎人(とねり)親王王子。母は当麻山背(たいまのやましろ)。諱(いみな)は大炊王(おおいおう)。孝謙(こうけん)天皇の皇太子は初め道祖(ふなど)王であったが、天皇のもとで権力を振るった藤原仲麻呂(なかまろ)は、757年(天平宝字1)道祖王を廃し、大炊王を皇太子にたてた。これは、仲麻呂が彼の邸宅田村第に大炊王を迎え、仲麻呂の子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)と結婚させていたからである。翌年即位し、天皇のもとで仲麻呂は専権を振るった。しかし762年に天皇は孝謙上皇と対立し、上皇は天皇から国家の大事と賞罰の権を奪い、764年に仲麻呂の乱が起こると、10月淳仁を廃して淡路(あわじ)公とし淡路国(兵庫県淡路島)に幽閉した。翌765年(天平神護1)10月逃れようとして捕らえられ、翌23日薨(こう)じた。淡路廃帝とよばれる。陵墓は兵庫県南あわじ市賀集(かしゅう)の淡路陵(あわじのみささぎ)。
[福井俊彦]
『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』▽『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』▽『北山茂夫著『女帝と道鏡』(1969・中央公論社)』
第47代に数えられる天皇。在位758-764年。天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の第7子。母は当麻山背。諱(いみな)は大炊(おおい)王。立太子以前に藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし,仲麻呂の邸宅である田村第に住んでいた。この関係から,仲麻呂は彼の立太子と即位を望んだ。時の皇太子は聖武太上天皇の遺詔によって立太子した道祖(ふなど)王(新田部親王の子)であったが,757年(天平宝字1)3月に廃され,翌4月に大炊王が立太子した。さらに,同年7月の橘奈良麻呂の変によって藤原仲麻呂が権力を確立したあと,758年8月,即位した。762年5月,道鏡の問題を契機に,淳仁天皇と孝謙太上天皇との関係は決裂し,後者が国家の大事と賞罰に関する権限を掌握し,淳仁天皇は常祀と小事に関する権限のみを行うにすぎなくなった。これは仲麻呂政権にとって大きな打撃であった。764年8月の藤原仲麻呂の没落後,天皇の地位を追われて淡路国の一院に幽閉された。これにより淡路廃帝,淡路公などと称された。765年10月,幽憤にたえず逃走を試みたが捕らえられ,翌日死亡した。時に33歳であった。陵は淡路陵(兵庫県南あわじ市賀集字岡ノ前)。
執筆者:栄原 永遠男
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(狩野久)
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733~765.10.23
在位758.8.1~764.10.9
天武天皇の孫で,舎人(とねり)親王の第7子。母は当麻山背(たいまのやましろ)。名は大炊(おおい)王。姻戚関係を通じて藤原仲麻呂の庇護をうけ,757年(天平宝字元)皇太子道祖(ふなど)王が廃された後,仲麻呂に推されて立太子し,翌年孝謙天皇の譲位をうけて即位。しかし762年には孝謙太上天皇との間に不和が生じて権力を奪われ,764年,恵美押勝(えみのおしかつ)(仲麻呂)の乱の直後に皇位を廃されて淡路に移された。このため淡路公(あわじのきみ)・淡路廃帝とも称される。翌年逃亡に失敗して同地で没した。
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…奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。…
…また,壬申の乱当時,小墾田には兵庫があり,争奪の対象となった。奈良時代,淳仁天皇は,760年(天平宝字4)8月から翌年1月ごろにかけて,小墾田(岡本)宮に移ったことがあった。この前後に,小墾田禅院,小墾田寺の存在を示す史料もある。…
…京都市上京区に鎮座。崇徳天皇,淳仁天皇をまつる。崇徳天皇は保元の乱のあと,讃岐国に流され,その地で没し,白峯陵(坂出市内)に葬られたが,1866年(慶応2)孝明天皇が京都に神霊を迎えまつろうとしてならず,68年(明治1)現地に白峯宮を創建してまつり,73年淡路島の淡路陵に葬られた淳仁天皇の神霊を迎え合祀した。…
…同年紫微内相(ないしよう)となって軍事権も手中にした仲麻呂は,諸兄の長子橘奈良麻呂や,大伴,佐伯,多治比ら反仲麻呂勢力の反乱を未然に鎮圧し(橘奈良麻呂の変),独裁政権を確立した。ついで758年大炊王が即位し淳仁天皇となると太保(右大臣)となり,恵美押勝の姓名,功封3000戸,功田100町を賜り,鋳銭,出挙(すいこ)の自由な権限を手中にし,また,恵美家印を太政官印にかえて用いることも許され,760年にはついに太師(太政大臣)となった。 しかし同年光明皇太后が没すると,しだいに政権にかげりがあらわれはじめた。…
※「淳仁天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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