道鏡(読み)ドウキョウ

デジタル大辞泉 「道鏡」の意味・読み・例文・類語

どうきょう〔ダウキヤウ〕【道鏡】

[?~772]奈良時代法相ほっそうの僧。河内かわちの人。弓削ゆげ氏出身。称徳天皇に信任されて政界に進出。太政大臣禅師・法王となり、権力をふるったが、皇位をねらって藤原氏および和気清麻呂わけのきよまろらに阻止された。天皇の死後、下野しもつけ薬師寺別当に左遷され、その地で没。

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共同通信ニュース用語解説 「道鏡」の解説

道鏡

現在の大阪府八尾市付近にいた豪族弓削ゆげ氏の出身とされる。宮中の禅師だった761年、孝謙上皇(後の称徳天皇)の病を完治させたことで信頼を得て、5年後に法王に。769年に称徳天皇により、八尾市付近に由義ゆげ宮などを含む「西京にしのきょう」の造営が計画されたが、翌年、天皇の死去に伴い中止。道鏡は神託と称して皇位継承を企てたが和気清麻呂わけのきよまろに阻まれ、下野国(栃木県)に追放され、772年に亡くなった。

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精選版 日本国語大辞典 「道鏡」の意味・読み・例文・類語

どうきょうダウキャウ【道鏡】

  1. 奈良時代の法相宗の僧。俗姓、弓削(ゆげ)。河内国(大阪府)の人。義淵に学び、大和国(奈良県)の葛城山で厳しい修行を行ない、天平宝字六年(七六二)孝謙上皇の病気平癒を祈り、以後その寵を得た。同八年大臣禅師、天平神護元年(七六五太政大臣禅師、同二年法王の位にのぼり、政治・宗教の両面に権力を振るったが、藤原氏の抵抗をうけ、宝亀元年(七七〇)称徳天皇(孝謙)の死後、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷された。宝亀三年(七七二)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道鏡」の意味・わかりやすい解説

道鏡
どうきょう
(?―772)

奈良後期の僧侶(そうりょ)、政治家。姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内(かわち)国若江郡(大阪府東大阪市若江)の人。出自に天智(てんじ)天皇皇子志貴(しき)(施基)親王の子説と、物部守屋(もののべのもりや)子孫説の2説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』など時代の降(くだ)る史料にみえる。河内弓削の地が若江郡、志紀郡にわたり、志紀(の人ということ)から志貴親王後胤説が出たものか。後者は『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月20日条の詔に「此禅師ノ昼夜朝廷ヲ護リ仕奉ルヲ見ルニ先祖ノ大臣トシテ仕奉リシ位名(物部守屋)ヲ継ガント……」とあるより推定される。守屋の子孫か否かは不明であるが物部氏に属した弓削部の伴造(とものみやつこ)であった。

 道鏡は義淵(ぎえん)僧正の弟子といわれ、若年に葛木(かつらぎ)山に入って如意輪(にょいりん)法を修して苦行無極と称せられた。文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したばかりであったらしい。その後禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となった。密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じた。761年(天平宝字5)より翌762年にかけ孝謙(こうけん)上皇(女帝)が近江(おうみ)保良宮(ほらのみや)(石山寺北方)に行幸滞在中と、762年4月病んだ際に、道鏡が宿曜(すくよう)秘法を修して看病し、病を癒(いや)して寵幸(ちょうこう)を得た。それを淳仁(じゅんにん)天皇が非難したので、上皇と天皇との間が悪化した。上皇は怒って平城京に還(かえ)り、法華寺で出家、6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣した。天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂恵美押勝(えみのおしかつ))は権勢を失った。道鏡は763年少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。翌764年9月11日仲麻呂は謀反を企てたが敗れて殺された。孝謙は淳仁天皇を廃して称徳(しょうとく)天皇として重祚(ちょうそ)した。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、765年(天平神護1)閏(うるう)10月、天皇弓削寺行幸の際、太政(だいじょう)大臣禅師に任ぜられた。766年法王に任じ、月料は天皇の供御(くご)に准(じゅん)ぜられ、人臣最高の地位を極めた。

 道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やした。国分寺の復興修造に意を用い、諸大寺にしばしば天皇の行幸を仰いだ。765年貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許した。767年(神護景雲1)阿波(あわ)国の王臣の功田、位田を収めて口分田(くぶんでん)として班給するなど、貴族を抑圧した。陸奥(むつ)国に伊治(いじ)城、桃生(もものう)城、筑前(ちくぜん)に怡土(いと)城を築き、水城を修理するなど辺境の防備を固めた。各地から道鏡におもねり奇跡、祥瑞(しょうずい)の報告、献上が相次いだが自分からも策謀し、彼の徳政を天が嘉(よみ)すると宣伝した。その最大のものが宇佐八幡(うさはちまん)神託事件である。769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)(生没年不詳)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)(生没年不詳)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫(わけのひろむし))の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認させた。清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかった。清麻呂の背後には藤原氏ら貴族の援助があったかもしれぬ。道鏡は郷里河内弓削に由義宮(ゆげのみや)を建設、西京と号し、河内国を河内職と改め、三度行幸を仰いだ。770年(宝亀1)行幸中、天皇は発病、8月崩御し、道鏡は皇太子白壁(しらかべ)王(光仁(こうにん)天皇)により造下野(しもつけ)国薬師寺別当に左遷された。宝亀(ほうき)3年4月7日ここで死に、庶人として葬られた。

[横田健一 2017年9月19日]

『横田健一著『道鏡』(1969・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「道鏡」の意味・わかりやすい解説

道鏡 (どうきょう)
生没年:?-772(宝亀3)

奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。

 道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に葛木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。

 道鏡は仏教重視,公卿抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。東大寺に対抗して西大寺西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。
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百科事典マイペディア 「道鏡」の意味・わかりやすい解説

道鏡【どうきょう】

奈良末期の政治家,僧。河内(かわち)に生まれ,俗姓弓削連(ゆげのむらじ)。称徳天皇孝謙天皇)の信任を受け政界に進出。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後,765年太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ),さらに翌年法王に上り権勢をふるった。769年皇位をねらったが和気(わけ)清麻呂らの妨害で失敗(宇佐八幡宮神託事件)。770年下野(しもつけ)薬師寺別当におとされ,同地で死んだ。
→関連項目慶俊光仁天皇下野薬師寺跡太政大臣奈良仏教藤原仲麻呂法王宮職保良宮薬師寺由義宮

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朝日日本歴史人物事典 「道鏡」の解説

道鏡

没年:宝亀3(772)
生年:生年不詳
奈良時代の僧。弓削道鏡ともいう。河内国若江郡(大阪府八尾市)弓削郷の出身。義淵の弟子と伝える。東大寺の僧として良弁に仕え,また葛城山中で如意輪法を修し,梵文(サンスクリット)に通じた。天平宝字6(762)年平城宮改築のため近江(滋賀県)の保良宮に行幸していた孝謙上皇が病となった際,宿曜秘法を用いて看病に努めた。その功績により上皇の寵遇を得,常に近侍するようになる。そのことがひとつの原因となって孝謙上皇と淳仁天皇,藤原仲麻呂との間に軋轢が生じ,同8年9月藤原仲麻呂の乱が勃発し,淳仁天皇は廃されて上皇が再び皇位についた(称徳天皇)。この間道鏡は少僧都から大臣禅師の任につき,次いで翌天平神護1(765)年には太政大臣禅師となった。翌2年隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像に舎利が出現すると法王の地位に就き,これに付属した法王宮職という機構が新たに設置された。さらに神護景雲3(769)年には豊後国(大分県)の宇佐八幡神が道鏡の皇位継承を勧める託宣をたれたという報告があり,その真偽を確かめるため和気清麻呂が宇佐に派遣されたが,清麻呂の報告によって道鏡の即位は妨げられることになった。このような道鏡の異例の出世はすべて称徳天皇の意向に基づくもので,尼となっていた称徳天皇が仏教信仰を通じての関係から道鏡に全幅の信頼を寄せ,皇位の継承まで望んだものと考えられる。宝亀1(770)年に天皇が死去すると道鏡は下野国(栃木県)薬師寺に左遷され,2年後この地で死去した。 仲麻呂の乱以降称徳天皇の死去まで,とかく道鏡の動向が注目され,道鏡政権期であるとか,仏教政治を行ったなどと従来評価されてきた。確かにこの時期,僧俗の身分秩序が混乱し,僧尼の発言力が増すという事態を招いたことは否定できないが,それは決して従来の政治体制を根本的に覆すものでなく,また道鏡個人に何ほどの権力が存在したか疑わしい。従来の秩序を混乱させたとすれば,それは称徳天皇の意向によるものといえ,道鏡が性的な魅力で天皇を幻惑したというのも,天皇自身の失政をカバーするための評価と受け取ることができるのである。

(本郷真紹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「道鏡」の意味・わかりやすい解説

道鏡
どうきょう

[生]?
[没]宝亀3(772).下野
奈良時代末期の法相宗の僧。義淵の弟子。その本貫は河内国志紀郡弓削 (ゆげ) 。そのためか弓削道鏡と呼ばれる。初め葛木山で修業,のち東大寺に入り,天平宝字5 (761) 年保良宮 (ほらのみや) で孝謙上皇の病気を癒やして以来信任され,少僧都となり,同8年恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) 失脚後は仏教政治をしき,翌年太政大臣禅師,天平神護2 (766) 年法王となった。神護景雲3 (769) 年弟の大宰師弓削浄人や宇佐の神官習宜 (すげ) 阿曾麻呂によって,道鏡を皇位につけようとする神託が仕組まれたが,和気清麻呂らに阻止され,称徳天皇 (孝謙天皇重祚) の死後,下野薬師寺に左遷された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「道鏡」の解説

道鏡
どうきょう

?~772.4.7

奈良時代の僧。河内国若江郡弓削(ゆげ)郷の人。俗姓弓削氏。義淵(ぎえん)に師事し法相を学び,梵文にも通じた。禅行を認められて内道場に入り,禅師となる。762年(天平宝字6)孝謙上皇の看病に功があったとして寵を得,翌年少僧都,764年大臣禅師,765年太政大臣禅師となる。同年から西大寺造営に着手し,僧尼身分を証明する度牒(どちょう)にもっぱら道鏡印を用いた。翌年隅寺(すみでら)(海竜王寺)からの舎利出現を機に法王となり,身分は天皇に準じた。769年(神護景雲3)法王宮職印を使用し,宇佐八幡の神託を利用して皇位をうかがったが,和気清麻呂らに阻止された。翌年称徳天皇の没後,造下野薬師寺別当に追放され,同地で没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「道鏡」の解説

道鏡 どうきょう

?-772 奈良時代の僧。
孝謙上皇の病気をなおしたことで寵愛(ちょうあい)をうけ,政界に進出。藤原仲麻呂の乱後,上皇が称徳天皇としてふたたび即位すると,太政大臣禅師,ついで法王となり権勢をふるった。神護景雲(じんごけいうん)3年宇佐八幡(うさはちまん)宮の神託を利用して皇位につこうと画策するが失敗。下野(しもつけ)(栃木県)薬師寺別当に左遷され,宝亀(ほうき)3年4月7日同地で死去。河内(かわち)(大阪府)出身。俗姓は弓削(ゆげ)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「道鏡」の解説

道鏡
どうきょう

?〜772
奈良後期の法相宗の僧
河内国(大阪府)の人。俗姓弓削 (ゆげ) 氏。孝謙上皇(称徳天皇)の寵愛をうけ政界に進出。藤原仲麻呂の乱(764)後,太政大臣禅師,ついで法王となり,権勢をふるった。769年皇位を望んだが,藤原百川 (ももかわ) ・和気清麻呂らの妨害によって失敗に終わった。770年称徳天皇の死後,下野 (しもつけ) (栃木県)薬師寺別当に左遷され,その地で没した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「道鏡」の解説

道鏡
(通称)
どうきょう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
和州夫立石
初演
享保12.春(京・佐野川万菊座)

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世界大百科事典(旧版)内の道鏡の言及

【宇佐八幡宮神託事件】より

…769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。…

【恵美押勝の乱】より

…しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。…

【下野薬師寺跡】より

…栃木県河内郡南河内町薬師寺に7世紀後半に創建された寺院の跡。下野薬師寺は761年(天平宝字5)に戒壇が開基され,東大寺および筑前観世音寺の戒壇と合わせて,天下三戒壇と称されたこと,770年(宝亀1)に道鏡が造下野国薬師寺別当として配流され,772年この地で没したことで,とくに知られている。1965‐71年に行われた発掘調査によって寺域西寄りで,南北中軸線上に南門,中門,金堂,講堂が並び,中門と講堂をつなぐ回廊のなかに,金堂とその背後西寄りに戒壇堂と称する建物跡のある状況が判明した。…

【奈良時代】より

…この橘奈良麻呂の変ののち大炊王は淳仁天皇として即位,仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と称するとともに,やがて正一位大師(太政大臣)の極位極官に昇り,その専権が確立した。 しかしこの仲麻呂の権勢も光明皇太后の死を一つの契機として急速に下降しはじめ,内道場禅師として台頭してきた道鏡を寵愛する孝謙上皇と,これを批判する淳仁天皇が近江保良宮滞在中に不和となり,孝謙,道鏡や大伴,佐伯ら反仲麻呂派と,淳仁,仲麻呂派の対立は決定的となった。しかも形勢はしだいに仲麻呂派に不利となり,加えて凶作・災害が相つぎ,また開基勝宝などの銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が著しくなった。…

【法王宮職】より

…767年(神護景雲1)に設置された令外官。道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。道鏡は766年(天平神護2)10月法王に任ぜられた。…

【弓削浄人】より

…河内国若江郡出身。道鏡の弟。764年(天平宝字8)9月11日,藤原仲麻呂の謀反した日に従四位参議,10月上総守,翌年(天平神護1)従四位上,766年正三位中納言,767年(神護景雲1)内豎卿,衛門督,768年3月大納言兼大宰帥,769年従二位と累進した。…

【由義宮】より

…奈良時代,769年(神護景雲3)から770年(宝亀1)ころ河内国にあった離宮。称徳天皇は河内国若江郡の弓削氏出身の僧道鏡を寵幸し,太政大臣禅師さらに法王に任じ,供御は天皇に準ずる待遇を与えた。769年宇佐八幡宮神託事件の直後,10月に天皇は道鏡の出身地,若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て,ここに行幸した。…

※「道鏡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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