コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

道鏡 どうきょう

9件 の用語解説(道鏡の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

道鏡
どうきょう

[生]?
[没]宝亀3(772).下野
奈良時代末期の法相宗の僧。義淵の弟子。その本貫は河内国志紀郡弓削 (ゆげ) 。そのためか弓削道鏡呼ばれる。初め葛木山で修業,のち東大寺に入り,天平宝字5 (761) 年保良宮 (ほらのみや) で孝謙上皇の病気を癒やして以来信任され,少僧都となり,同8年恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) 失脚後は仏教政治をしき,翌年太政大臣禅師,天平神護2 (766) 年法王となった。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

道鏡

孝謙上皇(のちの称徳天皇)の看病禅師を務めたことがきっかけで法王にまで登りつめた奈良時代後半の僧。河内国若江郡(大阪府八尾市)の出身といわれている。769年、「道鏡を天皇にせよ」という豊前国(大分県)の宇佐八幡神のお告げが下ったとされるが、即位を阻まれ、称徳天皇の病没後に失脚。772年に左遷先の下野国(栃木県)・薬師寺で死亡したとされる。

(2016-09-16 朝日新聞 朝刊 3社会)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

どうきょう〔ダウキヤウ〕【道鏡】

[?~772]奈良時代の法相(ほっそう)宗の僧。河内(かわち)の人。弓削(ゆげ)氏出身。称徳天皇に信任されて政界に進出。太政大臣禅師・法王となり、権力をふるったが、皇位をねらって藤原氏および和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻止された。天皇の死後、下野(しもつけ)薬師寺別当に左遷され、その地で没。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

道鏡【どうきょう】

奈良末期の政治家,僧。河内(かわち)に生まれ,俗姓弓削連(ゆげのむらじ)。称徳天皇孝謙天皇)の信任を受け政界に進出。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後,765年太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ),さらに翌年法王に上り権勢をふるった。
→関連項目慶俊光仁天皇下野薬師寺跡太政大臣奈良仏教藤原仲麻呂法王宮職保良宮薬師寺由義宮

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

道鏡 どうきょう

?-772 奈良時代の僧。
孝謙上皇の病気をなおしたことで寵愛(ちょうあい)をうけ,政界に進出。藤原仲麻呂の乱後,上皇が称徳天皇としてふたたび即位すると,太政大臣禅師,ついで法王となり権勢をふるった。神護景雲(じんごけいうん)3年宇佐八幡(うさはちまん)宮の神託を利用して皇位につこうと画策するが失敗。下野(しもつけ)(栃木県)薬師寺別当に左遷され,宝亀(ほうき)3年4月7日同地で死去。河内(かわち)(大阪府)出身。俗姓は弓削(ゆげ)。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

道鏡

没年:宝亀3(772)
生年:生年不詳
奈良時代の僧。弓削道鏡ともいう。河内国若江郡(大阪府八尾市)弓削郷の出身。義淵の弟子と伝える。東大寺の僧として良弁に仕え,また葛城山中で如意輪法を修し,梵文(サンスクリット)に通じた。天平宝字6(762)年平城宮改築のため近江(滋賀県)の保良宮に行幸していた孝謙上皇が病となった際,宿曜秘法を用いて看病に努めた。その功績により上皇の寵遇を得,常に近侍するようになる。そのことがひとつの原因となって孝謙上皇と淳仁天皇,藤原仲麻呂との間に軋轢が生じ,同8年9月藤原仲麻呂の乱が勃発し,淳仁天皇は廃されて上皇が再び皇位についた(称徳天皇)。この間道鏡は少僧都から大臣禅師の任につき,次いで翌天平神護1(765)年には太政大臣禅師となった。翌2年隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像に舎利が出現すると法王の地位に就き,これに付属した法王宮職という機構が新たに設置された。さらに神護景雲3(769)年には豊後国(大分県)の宇佐八幡神が道鏡の皇位継承を勧める託宣をたれたという報告があり,その真偽を確かめるため和気清麻呂が宇佐に派遣されたが,清麻呂の報告によって道鏡の即位は妨げられることになった。このような道鏡の異例の出世はすべて称徳天皇の意向に基づくもので,尼となっていた称徳天皇が仏教信仰を通じての関係から道鏡に全幅の信頼を寄せ,皇位の継承まで望んだものと考えられる。宝亀1(770)年に天皇が死去すると道鏡は下野国(栃木県)薬師寺に左遷され,2年後この地で死去した。 仲麻呂の乱以降称徳天皇の死去まで,とかく道鏡の動向が注目され,道鏡政権期であるとか,仏教政治を行ったなどと従来評価されてきた。確かにこの時期,僧俗の身分秩序が混乱し,僧尼の発言力が増すという事態を招いたことは否定できないが,それは決して従来の政治体制を根本的に覆すものでなく,また道鏡個人に何ほどの権力が存在したか疑わしい。従来の秩序を混乱させたとすれば,それは称徳天皇の意向によるものといえ,道鏡が性的な魅力で天皇を幻惑したというのも,天皇自身の失政をカバーするための評価と受け取ることができるのである。

(本郷真紹)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

どうきょう【道鏡】

?‐772(宝亀3)
奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

どうきょう【道鏡】

?~772) 奈良時代の僧。河内の人。俗姓弓削ゆげ氏。称徳天皇の寵を受け、太政大臣禅師に、次いで法王位に昇り、政界に権勢をふるった。のち皇位に就こうとしたが和気清麻呂らの妨害にあい失敗。称徳天皇の死後失脚し、造下野国薬師寺別当に左遷されその地で没した。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

道鏡
どうきょう
(?―772)

奈良後期の僧侶(そうりょ)、政治家。姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内(かわち)国若江郡(大阪府東大阪市若江)の人。出自に天智(てんじ)天皇皇子志貴(しき)(施基)親王の子説と、物部守屋(もののべのもりや)子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』など時代の降(くだ)る史料にみえる。河内弓削の地が若江郡、志紀郡にわたり、志紀(の人ということ)から志貴親王後胤説が出たものか。後者は『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月20日条の詔に「此禅師ノ昼夜朝廷ヲ護リ仕奉ルヲ見ルニ先祖ノ大臣トシテ仕奉リシ位名(物部守屋)ヲ継ガント……」とあるより推定される。守屋の子孫か否かは不明であるが物部氏に属した弓削部の伴造(とものみやつこ)であった。
 道鏡は義淵(ぎえん)僧正の弟子といわれ、若年に葛木(かつらぎ)山に入って如意輪(にょいりん)法を修して苦行無極と称せられた。文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書に東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したばかりであったらしい。その後禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となった。密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じた。761年(天平宝字5)より翌年にかけ孝謙(こうけん)上皇(女帝)が近江(おうみ)保良宮(ほらのみや)(石山寺北方)に行幸滞在中と、762年4月病んだ際に、道鏡が宿曜(すくよう)秘法を修して看病し、病を癒(いや)して寵幸(ちょうこう)を得た。それを淳仁(じゅんにん)天皇が非難したので、上皇と天皇との間が悪化した。上皇は怒って平城京に還(かえ)り、法華寺で出家、6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣した。天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は権勢を失った。道鏡は763年少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。翌年9月11日仲麻呂は謀反を企てたが敗れて殺された。孝謙は淳仁天皇を廃して称徳(しょうとく)天皇として重祚(ちょうそ)した。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、765年(天平神護1)閏(うるう)10月、天皇弓削寺行幸の際、太政(だいじょう)大臣禅師に任ぜられた。766年法王に任じ、月料は天皇の供御(くご)に准(じゅん)ぜられ、人臣最高の地位を極めた。
 道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やした。国分寺の復興修造に意を用い、諸大寺にしばしば天皇の行幸を仰いだ。765年貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許した。767年(神護景雲1)阿波(あわ)国の王臣の功田、位田を収めて口分田(くぶんでん)として班給するなど、貴族を抑圧した。陸奥(むつ)国に伊治(いじ)城、桃生(もものう)城、筑前(ちくぜん)に怡土(いと)城を築き、水城を修理するなど辺境の防備を固めた。各地から道鏡におもねり奇跡、祥瑞(しょうずい)の報告、献上が相次いだが自分からも策謀し、彼の徳政を天が嘉(よみ)すると宣伝した。その最大のものが宇佐八幡(うさはちまん)神託事件である。769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫(わけのひろむし))の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認させた。清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかった。清麻呂の背後には藤原氏ら貴族の援助があったかもしれぬ。道鏡は郷里河内弓削に由義宮(ゆげのみや)を建設、西京と号し、河内国を河内職と改め、三度行幸を仰いだ。770年(宝亀1)行幸中、天皇は発病、8月崩御し、道鏡は皇太子白壁(しらかべ)王(光仁(こうにん)天皇)により造下野(しもつけ)国薬師寺別当に左遷された。宝亀(ほうき)3年4月7日ここで死に、庶人として葬られた。[横田健一]
『横田健一著『道鏡』(1969・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の道鏡の言及

【宇佐八幡宮神託事件】より

…769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。…

【恵美押勝の乱】より

…しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。…

【下野薬師寺跡】より

…栃木県河内郡南河内町薬師寺に7世紀後半に創建された寺院の跡。下野薬師寺は761年(天平宝字5)に戒壇が開基され,東大寺および筑前観世音寺の戒壇と合わせて,天下三戒壇と称されたこと,770年(宝亀1)に道鏡が造下野国薬師寺別当として配流され,772年この地で没したことで,とくに知られている。1965‐71年に行われた発掘調査によって寺域西寄りで,南北中軸線上に南門,中門,金堂,講堂が並び,中門と講堂をつなぐ回廊のなかに,金堂とその背後西寄りに戒壇堂と称する建物跡のある状況が判明した。…

【奈良時代】より

…この橘奈良麻呂の変ののち大炊王は淳仁天皇として即位,仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と称するとともに,やがて正一位大師(太政大臣)の極位極官に昇り,その専権が確立した。 しかしこの仲麻呂の権勢も光明皇太后の死を一つの契機として急速に下降しはじめ,内道場禅師として台頭してきた道鏡を寵愛する孝謙上皇と,これを批判する淳仁天皇が近江保良宮滞在中に不和となり,孝謙,道鏡や大伴,佐伯ら反仲麻呂派と,淳仁,仲麻呂派の対立は決定的となった。しかも形勢はしだいに仲麻呂派に不利となり,加えて凶作・災害が相つぎ,また開基勝宝などの銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が著しくなった。…

【法王宮職】より

…767年(神護景雲1)に設置された令外官。道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。道鏡は766年(天平神護2)10月法王に任ぜられた。…

【弓削浄人】より

…河内国若江郡出身。道鏡の弟。764年(天平宝字8)9月11日,藤原仲麻呂の謀反した日に従四位参議,10月上総守,翌年(天平神護1)従四位上,766年正三位中納言,767年(神護景雲1)内豎卿,衛門督,768年3月大納言兼大宰帥,769年従二位と累進した。…

【由義宮】より

…奈良時代,769年(神護景雲3)から770年(宝亀1)ころ河内国にあった離宮。称徳天皇は河内国若江郡の弓削氏出身の僧道鏡を寵幸し,太政大臣禅師さらに法王に任じ,供御は天皇に準ずる待遇を与えた。769年宇佐八幡宮神託事件の直後,10月に天皇は道鏡の出身地,若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て,ここに行幸した。…

※「道鏡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

道鏡の関連キーワード度羅楽弓削道鏡神護景雲由義宮円興河内百枝娘子紀広庭弓削牛養弓削浄人弓削御浄広方

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

道鏡の関連情報