藤原寛子(読み)ふじわらのかんし

朝日日本歴史人物事典 「藤原寛子」の解説

藤原寛子

没年大治2.8.14(1127.9.21)
生年:長元9(1036)
平安中期,後冷泉天皇皇后。関白藤原頼通と従二位藤原祇子の娘。永承5(1050)年15歳で入内。翌年皇后,以後,中宮,皇太后,太皇太后となり,「在后位七十七年,古今未だ此の如き例なし,志性は甚直,花美極限なし」(『中右記』死没日条)とされるが,子が生まれず頼通の権勢が崩壊する因になったといわれる。後冷泉の在位中は,春秋歌合を主催したり,華美な装束で法華八講に参列したりしたが,天皇没後は宇治法定院に居住した。

(服藤早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原寛子」の解説

藤原寛子(3) ふじわらの-かんし

1036-1127 平安時代中期,後冷泉(ごれいぜい)天皇の皇后。
長元9年生まれ。藤原頼通(よりみち)の娘。母は藤原祇子(ぎし)。永承5年(1050)女御(にょうご),翌年皇后となる。藤原歓子の立后により中宮(ちゅうぐう)にうつり,のち皇太后,太皇太后。四条后,宇治大宮とよばれる。「皇后宮春秋歌合」などを主催した。大治(だいじ)2年8月14日死去。92歳。

藤原寛子(2) ふじわらの-かんし

999-1025 平安時代中期,敦明(あつあきら)親王(小一条院)の妃。
長保元年生まれ。藤原道長の娘。母は源明子寛仁(かんにん)元年(1017),東宮をしりぞき院号をさずけられた敦明親王にとつぐ。「栄花物語」はこのとき19歳とつたえている。敦元親王,儇子(けんし)内親王らを生んだ。万寿2年7月9日死去。27歳。

藤原寛子(1) ふじわらの-かんし

906-945 平安時代中期,重明(しげあきら)親王の妃。
延喜(えんぎ)6年生まれ。藤原忠平の次女。徽子(きし)女王(斎宮女御),悦子女王,源邦正らを生んだ。天慶(てんぎょう)8年1月18日死去。40歳。名は「ひろこ」ともよむ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原寛子」の意味・わかりやすい解説

藤原寛子
ふじわらのかんし

[生]長元3(1030)
[没]大治2(1127).8.14.
後冷泉天皇の皇后。頼通の娘。別称,四条后。永承5 (1050) 年女御,翌年皇后となった。

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