日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原文化」の意味・わかりやすい解説
藤原文化
ふじわらぶんか
平安中期、藤原氏による貴族(摂関)政治展開期の文化。王朝文化とも。この呼称は、(1)延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治以後、天皇にかわって摂関家を中心とする貴族が文化の主体となったこと、(2)書・絵画・彫刻・工芸・建築など美術の諸分野で日本的な特徴が顕著になったこと、の二要素をとらえていった、主として日本美術史での用語であるが、同様の傾向は宗教や文学などの世界でもみられたところから、最近は国風(こくふう)文化の名でよぶことが多い。漢字(真名(まな))を略した仮名(かな)(平仮名、片仮名)の考案に示されるように、国(和)風文化は長期にわたる大陸文化の摂取を通じて育てられたもので、菅原道真(すがわらのみちざね)の建策で遣唐使が廃止された(894)ため中国文化の影響が薄れた結果とみるのは適当でない。
その傾向の一端は、すでに9世紀なかば、それまで盛行していた漢詩にかわる和歌の復興という形で現れ始めており、それが六歌仙の活躍を経て、10世紀初頭の『古今和歌集』の勅撰(ちょくせん)に及ぶ。具注暦(ぐちゅうれき)に書き込むことで始まった、男による漢文体の私日記が、9世紀末、『本康(もとやす)親王日記』や『宇多(うだ)天皇日記』に始まり、正史である六国史(りっこくし)にとってかわったのが注目されるが、同じ日記でも道綱(みちつな)母の『蜻蛉(かげろう)日記』に始まる女日記の登場は、日本人にとっては漢字に比して表現が自由となった女手(おんなで)こと平仮名の使用に負うところが大きい。またこうした女流文学の開花には、中下級貴族の女(むすめ)が女房(にょうぼう)として求められた摂関政治のあり方と深くかかわっている。一条(いちじょう)天皇の皇后定子(ていし)に仕えた清少納言(せいしょうなごん)、同中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に仕えた紫式部はその代表で、『枕草子(まくらのそうし)』や『源氏物語』『紫式部日記』を書き、優れた才能を発揮した。
書では、平安初期の三筆に対して三蹟(さんせき)(小野道風(おののとうふう)・藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり))が現れ、絵では、唐絵(からえ)にかわる大和絵(やまとえ)が発達し、題材や描法において日本的な美意識が発達、これが寝殿(しんでん)造の建築様式に欠かせない屏風(びょうぶ)に多数描かれた。彫刻界でも、定朝(じょうちょう)によって和様が完成された。宇治平等院鳳凰(ほうおう)堂に安置された阿弥陀(あみだ)仏はその代表作で、これ以後「仏の本様(ほんよう)(規範)」とされた。寄木(よせぎ)造の手法はこの像において完成され、仏師の組織(仏所)化と相まって、増大する需要にこたえる量産体制がつくられたのもこの時代である。藤原文化は11世紀なかば、摂関政治の退潮に伴い生彩を失うが、この期に現れた文化の日本化の傾向そのものは変わることはない。
[村井康彦]