平安時代、藤原氏の嫡流が摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を独占し、天皇にかわって、あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉(れいぜい)天皇の践祚(せんそ)後まもなく藤原実頼(さねより)が関白となってから、1068年(治暦4)後三条(ごさんじょう)天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をさしていう。
[橋本義彦]
皇族が摂政となって政治を行った例は、推古(すいこ)天皇のときの聖徳太子や斉明(さいめい)朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)などにみられるが、臣下として摂政になったのは太政(だいじょう)大臣藤原良房(よしふさ)に始まり(866)、関白はその養嗣子(ようしし)基経(もとつね)に始まる(887)。律令(りつりょう)体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は、平安時代初頭にはすでに「累代相い承(う)け摂政して絶えず」(日本紀略)との理由で、他氏に優越した地位を認められていたが、ついに人臣摂関の創始によって、政権独占の合法的な根拠を得たのである。
もっとも摂政も関白も初めから職名として固定したものではなく、ともに執政を意味する同義語で、令(りょう)文に抽象的な規定しかない太政大臣に執政としての職能を付与するのが、当初の摂関の詔(みことのり)の重要なねらいといわれる。また基経の死後、その子忠平(ただひら)が摂政となるまで40年近い空白があり、忠平の死後また約20年間摂関の任命がなく、摂関政治はまだ定着するに至らなかった。しかし967年村上(むらかみ)天皇が崩じ、病弱の冷泉天皇が即位して、忠平の子実頼が関白となってからは、天皇幼少の間は摂政を、成人ののちは関白を置くのが常態となり、摂関の地位、性格もしだいに固まり、さらに986年(寛和2)一条(いちじょう)天皇の摂政藤原兼家(かねいえ)が右大臣辞任後、太政大臣の上席たるべき詔を賜るに及んで、摂関の独自の地位が確立するに至った。
[橋本義彦]
平安後期の藤原頼長(よりなが)がその日記『台記(たいき)』に、「摂政はすなはち天子なり、関白は百官を己(おの)れにすぶるといへども、なほ臣の位に在り」と書いているのは、摂政と関白の制度上の差異を包括的に述べたものである。しかしそれも実際には形式的な面にとどまり、ことに摂関政治のうえでは、摂政も関白も国政の主導的地位にあったことに相違はない。そのうえ摂関は令(りょう)制官職機構を超越した独自の地位を廟堂(びょうどう)に占めた。たとえば摂政・関白の補任(ぶにん)は詔勅によるのを常とするが、その詔勅の効力は各天皇1代に限られ、新帝が引き続いて前朝の摂関を任用する場合には、改めてその意味の詔勅を下す必要があった。これは大臣以下の令制官職と大きく異なるところで、摂関が令制官職機構の枠を越えて、天皇個人に結び付き、それに密着した地位にあることを意味する。一面、摂関の地位の確立に伴い、藤原氏の氏人(うじびと)中官位第一の者がつくべき同氏長者(うじのちょうじゃ)も、摂関が兼帯するようになり、貴族社会に卓絶した勢力を誇る大藤原氏の氏人統率権をあわせもつに至った。
しかし摂関政治は、律令制にもともと持ち込まれていた貴族制的要素を押し広げる方向に作用したとはいえ、その政治は依然として律令制機構に立脚して行われ、別個の新しい行政機構や組織をつくりだしたわけではない。摂関家の政所(まんどころ)も、家政、氏政を執り行う機関で、その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが、それが国政機関そのものに転化した徴候は認められない。また摂関政治のもとでは里内裏(さとだいり)が盛行し、里内裏すなわち摂関邸が政治の場となったという説もあるが、この時代ではまだ里内裏の設置は臨時かつ短期間にとどまり、またときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても、摂関はその間、他所に転居するのが例であるから、里内裏=摂関邸とするのは適切でなく、この面からも、いわゆる政所政治論は成り立たないであろう。
[橋本義彦]
こうして摂政・関白は「一(いち)の人」として全廷臣の首位にたち、百官諸司を指揮して国政を領導したのであるが、この地位を根底で支えたのは天皇との外戚(がいせき)関係である。良房が人臣最初の摂政となったのも、良房が藤原氏で初めて在世中に天皇の外祖父の地位を得たことによるところが大きい。また摂関の座が藤原氏北家(ほっけ)のうち、とくに師輔(もろすけ)の九条流に帰したのも、師輔の娘である皇后安子と村上天皇との関係によるところが大きく、道長(みちなが)、頼通(よりみち)の摂関全盛期も、道長の築きあげた外戚体制の所産であることは周知のところである。
しかし、皇子の誕生とその即位という不確定な要素に依存するこの体制は、いったん運に見放されると、あえなく崩れ去る弱味を内包していた。頼通、教通(のりみち)らの念願もむなしく、その女子に皇子の出産をみることができず、ついに1068年には、外戚関係のない後三条(ごさんじょう)天皇が即位して、摂関の権勢は急速に後退し、院政の時代へと移っていった。そして院政のもとでは、摂関家と競合する外戚家が次々と現れたが、一面、摂関家は、外戚関係の有無にかかわらず、摂関を独占世襲する家柄として自己形成し、その限りでは摂関家の永続的安定をもたらしたのである。
[橋本義彦]
『土田直鎮著『日本の歴史 5 王朝の貴族』(1965・中央公論社)』▽『橋本義彦著『日本歴史全集 5 貴族の世紀』(1969・講談社)』▽『児玉幸多他編『図説日本文化史大系 5 平安時代 下』改訂新版(1967・小学館)』▽『坂本賞三著『日本の歴史 6 摂関時代』(1974・小学館)』
平安時代,藤原氏出身の摂政,関白が天皇に代わって,あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態。
推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。律令体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は,平安時代初頭にはすでに〈累代相い承け摂政して絶えず〉(《日本紀略》)との理由で,他氏に優越した地位を認められていた。さらに政争に乗じて他氏排斥に成功した良房は,ついに人臣最初の太政大臣に任ぜられ,ついで外孫の清和天皇が幼少で即位するや,執政の実をとり,さらに摂政の詔をうけた。ついで良房の継嗣基経が摂政となり,さらに関白の詔をうけたが,摂政も関白も初めから職名として固定したものではなく,両者を混用した例もある。しかし基経の男忠平が朱雀天皇の践祚と同時に摂政となり,ついで天皇の元服後,摂政を辞して関白に任ぜられるに及び,幼帝の代理を任とする摂政と,成人天皇の補佐を任とする関白との別も生ずるに至った。ただ基経の没後40年と,忠平の没後20年の間は摂関の任命がなく,まだ摂関政治は定着するに至らなかった。しかし村上天皇が没し,病弱の冷泉天皇が即位して,忠平の男実頼が関白に任ぜられてからは,天皇幼少の間は摂政を,成人の後は関白を置くのが常態となり,さらに一条天皇の摂政藤原兼家が右大臣辞任後,太政大臣の上席たるべき宣旨,いわゆる〈一座宣旨(いちざのせんじ)〉をたまわるに及んで,摂関の独自至上の地位が確立するに至った。
平安後期の公卿藤原頼長はその日記《台記》に,〈摂政はすなわち天子なり,関白は百官を己にすぶるといえども,なお臣の位にあり〉と書いて,摂政と関白との別を強調しているが,それも形式的,儀礼的な面にとどまり,実際政治のうえでは,摂政も関白も国政主導の実権を掌握していたことに変りはない。そのうえ摂関は,令制官職機構を超越した,独自の地位を廟堂に占めた。たとえば摂政・関白の補任は詔勅によるのを常例とするが,その詔勅の効力は各天皇一代に限られ,新帝が引き続いて前朝の摂関を任用する場合には,あらためてその意味の勅旨をくだす必要があった。これは大臣以下の令制官職と大きく異なるところで,摂関が天皇個人に結びついた地位であることを意味する。一方,摂関の地位の確立にともない,藤原氏の氏人中官位第一の者がつくべき氏長者も,摂関が兼帯するようになり,貴族社会に卓絶した勢力をほこる藤原氏の氏人統率権をあわせ持つに至った。しかし摂関政治の運営は,依然として律令制機構に立脚して行われ,別個の新しい行政機構や組織を作り出したわけではない。摂関家の政所も,家政・氏政を執行する機関で,その間接的に国政に及ぼした影響は軽視できないが,それが国政機関そのものに転化したとは考えられない。また摂関政治のもとでは,里内裏(さとだいり)が盛行し,里内裏=摂関邸が政治の場となり,政所がその執行機関となったという説もあるが,実際にはこの時代の里内裏の設置は,まだ臨時かつ短期間にとどまり,ときには摂関がその邸宅を仮皇居に提供することはあっても,摂関はその間他所に転居するのが常であるから,里内裏=摂関邸とする見解は適切でなく,この面からも,いわゆる政所政治論は成り立たない。
こうして摂政・関白は,〈一の人〉として廟堂の首位を占め,百官・諸司を率いて朝儀・公事を運営したのであるが,その地位を根底で支えたのは,天皇との外戚関係である。良房が人臣最初の摂政となったのも,彼が藤原氏では初めて在世中に外祖父となった好運によるところが大きい。また兼家が摂関の独自至上の地位を朝廷に確立した根拠も,彼の外祖父の地位にあったし,道長・頼通の摂関全盛期も,道長のきずきあげた外戚体制の所産であることは周知のとおりである。しかし皇男子の誕生とその即位という,不確定な要素に依存する外戚体制は,いったん運に見放されると,あえなく崩れ去る弱みを内包していた。頼通・教通らの念願もむなしく,その女子に皇男子の出産をみることができず,ついに1068年(治暦4)には,藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位し,摂関の勢威は急速に低下して,院政時代へと移っていった。そして院政のもとでは,村上源氏や閑院流藤原氏が外戚家として,道長嫡流の御堂流藤原氏と権勢を競ったが,その間,御堂流藤原氏は,外戚関係の有無にかかわらず,摂関の座を独占世襲することに成功し,家柄としての摂関家を確立して,その永続的安定をもたらしたのである。
→院政
執筆者:橋本 義彦
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平安中期に藤原氏が摂政・関白に任命され,その下で行われた政治形態。858年(天安2)に9歳の惟仁(これひと)親王が即位すると太政大臣藤原良房(よしふさ)が万機の政を摂行することになり,866年(貞観8)応天門の変のあと成人となった清和天皇の下で摂政として朝政を領導し,良房没後その養子基経(もとつね)が陽成・光孝・宇多各天皇の下で摂政・関白の任に就いた。醍醐朝では摂政・関白がおかれず,朱雀朝から村上朝の初期にかけて藤原忠平が摂政・関白に任じられたのち,村上天皇の親政が行われた。冷泉朝以降は摂政・関白の常置時代となり,11世紀前半の藤原道長が執政した時代に摂関政治の最盛期を迎えている。11世紀後半以降の上皇が実権を握る院政期になると,摂政・関白がおかれていても摂関政治とよばないのが通例である。良房・基経による摂関政治を10世紀以降のそれと区別して,前期摂関政治とよぶことがある。摂関政治は天皇の外戚であることを権力の根源とし,天皇大権を補い代行するというかたちで国家権力の実を握るものとして存立し,10世紀以降には受領(ずりょう)による負名(ふみょう)支配を基盤とするようになっている。
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…もちろん天皇が大政を総攬する権能も厳存したから,政務親裁ないし独裁を志向する天皇の出現も妨げられなかったが,執政官に大政を委任し,〈垂拱(すいきよう)して成るを仰ぐ〉天皇があらわれても,太政官政治は十分に機能したのである。
[摂関政治と天皇]
この後者の方式を慣習化したのが,摂関政治と呼ばれる政治形態である。その端緒は,人臣太政大臣の任命にある。…
…しかしその地位は,関白に准ずる輔弼(ほひつ)の臣と,公事執行の権を握る一上(いちのかみ)の座を併せもつものであり,時人から摂政・関白に異ならずと評された。たしかに幼帝の代行者である摂政と,成人天皇を補佐する関白とは,制度上異なるところはあるが,摂関政治は,摂政ないし関白が朝廷を掌握し,主導する政治形態であるから,実際政治のうえでは両者の間に決定的な差異はなく,道長の例はその証左ともなる。道長は頼通に摂政を譲った後も,〈大殿〉と呼ばれて政治の実権を握り,政局の安定が続いた。…
※「摂関政治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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