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紫式部 むらさきしきぶ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

紫式部
むらさきしきぶ

[生]天延1(973)頃
[没]長和3(1014)頃
平安時代中期の物語作者。『源氏物語』の作者。漢学者であった藤原為時を父として生れ,母は藤原為信の女で早く亡くなり,父の手で育てられた。長保1 (999) 年頃年齢の違う藤原宣孝と結婚,後冷泉院の乳母になった大弐三位賢子を産んだが,同3年夫と死別。この寡婦時代に『源氏物語』の執筆を開始したと推定される。寛弘2 (1005) 年あるいは翌3年の年末,一条天皇の中宮彰子に出仕したが,女房生活にはなじめなかったらしい。その間の事情は『紫式部日記』に詳しい。その点,清少納言とは対照的で,同時代の女流文学者として,和泉式部赤染衛門らとともに対比されることが多い。 40歳余で没したと推定される。家集『紫式部集』があり,伝記資料としても重視される。

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デジタル大辞泉の解説

むらさき‐しきぶ【紫式部】

クマツヅラ科の落葉低木。山野に生え、高さ約3メートル。葉は対生し、楕円形で裏面に黄色の点がある。6、7月ごろ、葉の付け根に淡紫色の小花を集散状につけ、秋に紫色の球形の実を結ぶ。近縁のコムラサキは小ぶりで実が密につき、庭木とされる。漢名、紫珠。みむらさき。 秋》
[補説]人名別項。→紫式部

むらさき‐しきぶ【紫式部】[人名]

[973ころ~1014ころ]平安中期の女流作家。越前守藤原為時の娘。藤原宣孝と結婚し、夫の没後、「源氏物語」を書き始める。一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕え、藤原道長らに厚遇された。初めの女房名は藤式部。他に「紫式部日記」、家集「紫式部集」など。

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百科事典マイペディアの解説

紫式部【むらさきしきぶ】

平安中期の物語作者,歌人。三十六歌仙の一人。生没年不詳。当時,有数の学者,詩人であった藤原為時の娘として,生まれた。藤原宣孝に嫁して1女(大弐三位(だいにのさんみ))を産んだ。
→関連項目赤染衛門伊勢大輔一条天皇河海抄源氏供養狭衣物語紫明抄清少納言藤原彰子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

紫式部 むらさきしきぶ

?-? 平安時代中期の物語作者,歌人。
藤原為時の娘。母は藤原為信の娘。生年は天延元年(973)ごろ,没年は長和3年(1014)以降と推定されている。長保元年(999)藤原宣孝(のぶたか)と結婚,大弐三位(だいにのさんみ)(賢子)を生む。3年夫と死別ののち「源氏物語」をかきはじめ,文才をみとめられて上東門院(中宮(ちゅうぐう)彰子)につかえた。中古三十六歌仙のひとり。女房名は藤(とう)式部。家集に「紫式部集」,日記に「紫式部日記」。
【格言など】めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半(よは)の月かな(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

紫式部

没年:長和3以降(1014)
生年:生年不詳
天延1(973)年ごろ出生か。平安時代の物語作者,歌人。『源氏物語』の作者。父は藤原為時,母は藤原為信の娘。父の官職であった式部大丞と姓から,当初は藤式部という女房名で呼ばれたが,おそらくは没後,紫式部の名で呼ばれるようになった。その呼称は『源氏物語』の登場人物である紫上の名によるとする説が有力である。実名は不明。幼時に母を失い,学者,漢詩人であった父のもとで成長。兄弟の惟規より漢籍の覚えが早く,男子であったらと父を嘆かせた。長徳2(996)年に越前守となった父の赴任に同行したが,任期途中の同4年に単身帰京し,まもなく遠縁で,数人の妻と子供のいる40歳代の藤原宣孝と結婚,翌年にはのちに大弐三位と呼ばれる娘が生まれたが,長保3(1001)年に夫が急死,その後は寡婦の生活を送った。『源氏物語』の執筆はそのころ始まったと考えられる。おそらく文才を認められ,寛弘2(1005)年ごろ,藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に女房として出仕,同僚たちの視線のなかで,目立つことを恐れて学才を隠しながらも,彰子に『白氏文集』を進講したりした。道長の妾だったともいうが疑わしい『紫式部日記』は,寛弘5年から7年までの彰子の後宮の繁栄を,沈鬱な自己の心をみつめながら記録し,同僚女房への批評などを書簡体で加えた作品だが,そこには,酔った藤原公任から「若紫」という『源氏物語』の登場人物の名で呼びかけられた話や,『源氏物語』を読んだ一条天皇に『日本紀』をよく読んでいると賞賛され,同輩から「日本紀の御局」というあだ名を付けられた話などが記されており,出仕後も書き続けられた『源氏物語』が,そのころすでに男性にまでさかんに読まれていた様子がうかがわれる。 中国文学や伝承を巧妙に利用し,歴史的事実をも踏まえ,それ以前のさまざまな作品の達成を承けて和歌と散文の融合によるすぐれた内面描写の世界を切り開いた『源氏物語』は,それまでの物語の水準を大きく越えた日本文学を代表する作品となり,その影響は日本文化の全領域におよんでいる。その作者紫式部は,人の心を迷わす罪で地獄に堕ちたといわれながら,一方で観音の化身であったともされ,また儒教的視点から才色兼備の賢女と評されるなど,『源氏物語』とともにその像も後世さまざまに変遷した。20世紀に入るとウェイリーの英訳などによって『源氏物語』は海外でも高い評価を受け,世界文学の古典とされるに至ったが,紫式部も世界的に著名な作家のひとりとなり,1966年には日本人として初めてユネスコの「偉人年祭表」に加えられた。『源氏物語』には795首の作中歌がみられるが,このほか,家集『紫式部集』には,幼なじみの女友達との再会と別離を詠んだ「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ」など,娘時代の作者の面影を伝える和歌もみられて興味深い。『拾遺集』以下の勅撰集に51首が入集。

(山本登朗)

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世界大百科事典 第2版の解説

むらさきしきぶ【紫式部】

平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時。彼女は幼時に母(藤原為信の女)を失い,未婚時代が長かった。996年(長徳2)越前守となった父とともに北陸に下り,翌々年帰京,父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚,翌年賢子(のちの大弐三位(だいにのさんみ))を産んだ。

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大辞林 第三版の解説

むらさきしきぶ【紫式部】

クマツヅラ科の落葉低木。暖地の山野に生える。高さ2メートル 内外。葉は楕円形。初夏、葉腋ようえきに淡紅紫色の小花を多数つけ、秋、球形の液果が紫色に熟す。実紫みむらさき。漢名、紫珠。 [季] 秋。
人名(別項参照)。

むらさきしきぶ【紫式部】

973頃~1014頃) 平安中期の女流作家・歌人。藤原為時の女むすめ。はじめ藤式部と呼ばれる。藤原宣孝と結婚、大弐三位を生むがまもなく夫と死別。その後、源氏物語の執筆を始める。才媛のほまれ高く、一条天皇中宮彰子(上東門院)に仕え、「白氏文集」を進講。藤原道長や藤原公任らとの交流もあった。ほかに「紫式部日記」「紫式部集」などの著がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紫式部
むらさきしきぶ

生没年未詳。平安中期の女流作家。『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』を著し、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』以下の勅撰(ちょくせん)集に60首近い歌がとられている。藤原為時(ためとき)と為信(ためのぶ)娘との間の次女として生まれ、一族に曽祖父(そうそふ)藤原兼輔(かねすけ)、その従兄定方(さだかた)、祖父雅正(まさただ)、その弟清正(きよただ)、伯父為頼(ためより)など優れた歌人をもち、父為時も一流の文人であり、同母兄弟惟規(のぶのり)も家集を残している。兼輔は定方とともに紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)ら『古今集』歌人たちの庇護(ひご)者であり、醍醐(だいご)天皇親政下の有力貴族であったが、雅正・清正の代以降は受領(ずりょう)層に品定まり、為時に至っては時の帝(みかど)(一条天皇)に申文(もうしぶみ)を奉ってやっと越前守(えちぜんのかみ)の職を得るありさまであった。紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆き、身の程の口惜しさを思うものが目だつゆえんである。その「家」は兼輔が建て『大和(やまと)物語』などにその風流ぶりをうたわれた、賀茂(かも)川べりの堤第(つつみてい)であった公算が強い。京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)あたりがその跡地に相当する。
 生年については970年(天禄1)、973年(天延1)、978年(天元1)などの諸説があるが、973年ごろとみるのが妥当であろう。母を早く失い父の膝下(しっか)に育ったようで、その感化のもとに漢籍に親しんで優れた素質を示し、為時をして男子ならぬを嘆かせた。一方、家に伝わる歌書や物語類をも手当たりしだいに読みあさったらしく、箏(そう)の演奏なども伝授を頼まれるほどの腕前であった。近侍した花山(かざん)天皇の退位(986年6月)とともに職を失い蟄居(ちっきょ)する父の傍らで娘盛りを迎えた式部は、読書や友との交流などに心をやりながら過ごしたらしい。
 996年(長徳2)夏、国守として越前(福井県)へ向かう為時に同行した式部は、北国の深い雪に驚き1、2年で帰京、998年冬か999年(長保1)初春に藤原宣孝(のぶたか)と結婚した。宣孝は定方の曽孫、式部と縁続きで、為時の上司だったこともあり、磊落(らいらく)な人柄であったらしいが、すでに先妻との間に多くの子女があり、なお艶聞(えんぶん)が絶えず、式部もその夜離(よが)れに悩まねばならなかったようである。彼女が初婚の相手に20以上も年上と思われる相手を選んだことは注目されるが、この結婚生活は長く続かず、一女賢子(けんし)(大弐三位(だいにのさんみ))を残して1001年4月、宣孝が他界し、式部は若き寡婦としてほうり出された。『源氏物語』はこうした現実の絶望を乗り越える第二の現実として紡ぎ出されたらしい。
 1006年(寛弘3)暮れ(5年説も)、一条(いちじょう)天皇中宮彰子(しょうし)(藤原道長娘)のもとに出仕したが、その後も物語は書き継がれたらしい。『紫式部日記』は1008年9月の彰子の皇子出産(後の後(ご)一条天皇)を軸に自己の心境を交えて記したものである。一条天皇崩御(11年6月)ののちも式部は彰子の傍らにあったが、1014年(長和3)春ごろに没したらしい(1019年以降説もある)。『紫式部集』は晩年自ら編んだものと思われ、娘時代からの歌詠120首前後を収める。京都紫野(北区紫野西御所田(ごしょでん)町)に式部の墓と伝えるものがある。[伊藤 博]
 いづくとも身をやる方(かた)の知られねば憂(う)しと見つつも永らふるかな
『角田文衛著『紫式部とその時代』(1966・角川書店) ▽清水好子著『紫式部』(岩波新書) ▽稲賀敬二著『日本の作家12 源氏の作者 紫式部』(1982・新典社)』

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世界大百科事典内の紫式部の言及

【安藤為章】より

…また,光圀の命を受け《万葉集》の注釈につき難波にたびたび契沖を訪れた。考証に優れた才を発し,その著《紫女七論》は紫式部伝の科学的研究の先駆として名高い。【南 啓治】。…

【源氏物語】より

…54巻。作者は紫式部
[構成]
 現代では全編を三部構成と見る説が有力である。…

【女流文学】より

…この日記は藤原兼家の妻としての悲喜哀歓を克明に内面的に記しているが,《和泉式部日記》も敦道親王との愛の交渉を物語風に語る特異な作品である。一条天皇の時代(986‐1011)は女流文学の最盛期で,清少納言の《枕草子》は,日本文学史上最初の随筆文学として独自の美意識の体系を創出し,また紫式部の《源氏物語》は従来童幼婦女子の娯楽の具とされていた物語を男性知識人も無視することのできない創作文学へと高めた。和漢の先行文学を縦横に引用する格調高い文章によって書かれたこの作品は,壮麗な虚構の同時代史であるとともに深い人間省察の文学であった。…

【清少納言】より

…元輔の子といわれることをおそれて中宮に詠歌御免を請い,《清少納言集》《枕草子》《公任集》《和泉式部集》を通計して55首の自詠しか残さなかった寡作ぶり,道長方に内通するとのうわさにも争わずに里居にこもり,皇后亡きあとは人里離れた隠遁生活を送るなど,清少納言には意外な気の弱さが隠されていた。近世になって,晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が発生したが,これは,清少納言自身がひそやかな晩年を送ったという事実と,夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を《枕草子》に書きたてられたことを恨んだ紫式部が,その日記に清少納言の零落を予言するかのような酷評を残したこととが結合してのことである。【萩谷 朴】。…

【大弐三位】より

…平安中期の女流歌人。父は山城守藤原宣孝,母は紫式部。本名賢子。…

【藤原宣孝】より

…藤原氏北家の高藤系で,右大臣定方の曾孫,為輔の子。紫式部の夫。紫式部の父為時と為輔はいとこであり,宣孝と式部は,またいとこである。…

【紫式部集】より

紫式部の家集。少女時代から晩年ころまでの歌の自撰集。…

【紫式部日記】より

紫式部の日記。作者が仕えた一条天皇の中宮彰子(上東門院)の宮廷の日常と,その間の作者の感懐を記したもの。…

※「紫式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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