生没年未詳。平安中期の女流作家。『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』を著し、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』以下の勅撰(ちょくせん)集に60首近い歌がとられている。藤原為時(ためとき)と為信(ためのぶ)娘との間の次女として生まれ、一族に曽祖父(そうそふ)藤原兼輔(かねすけ)、その従兄定方(さだかた)、祖父雅正(まさただ)、その弟清正(きよただ)、伯父為頼(ためより)など優れた歌人をもち、父為時も一流の文人であり、同母兄弟惟規(のぶのり)も家集を残している。兼輔は定方とともに紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)ら『古今集』歌人たちの庇護(ひご)者であり、醍醐(だいご)天皇親政下の有力貴族であったが、雅正・清正の代以降は受領(ずりょう)層に品定まり、為時に至っては時の帝(みかど)(一条天皇)に申文(もうしぶみ)を奉ってやっと越前守(えちぜんのかみ)の職を得るありさまであった。紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆き、身の程の口惜しさを思うものが目だつゆえんである。その「家」は兼輔が建て『大和(やまと)物語』などにその風流ぶりをうたわれた、賀茂(かも)川べりの堤第(つつみてい)であった公算が強い。京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)あたりがその跡地に相当する。
生年については970年(天禄1)、973年(天延1)、978年(天元1)などの諸説があるが、973年ごろとみるのが妥当であろう。母を早く失い父の膝下(しっか)に育ったようで、その感化のもとに漢籍に親しんで優れた素質を示し、為時をして男子ならぬを嘆かせた。一方、家に伝わる歌書や物語類をも手当たりしだいに読みあさったらしく、箏(そう)の演奏なども伝授を頼まれるほどの腕前であった。近侍した花山(かざん)天皇の退位(986年6月)とともに職を失い蟄居(ちっきょ)する父の傍らで娘盛りを迎えた式部は、読書や友との交流などに心をやりながら過ごしたらしい。
996年(長徳2)夏、国守として越前(福井県)へ向かう為時に同行した式部は、北国の深い雪に驚き1、2年で帰京、998年冬か999年(長保1)初春に藤原宣孝(のぶたか)と結婚した。宣孝は定方の曽孫、式部と縁続きで、為時の上司だったこともあり、磊落(らいらく)な人柄であったらしいが、すでに先妻との間に多くの子女があり、なお艶聞(えんぶん)が絶えず、式部もその夜離(よが)れに悩まねばならなかったようである。彼女が初婚の相手に20以上も年上と思われる相手を選んだことは注目されるが、この結婚生活は長く続かず、一女賢子(けんし)(大弐三位(だいにのさんみ))を残して1001年4月、宣孝が他界し、式部は若き寡婦としてほうり出された。『源氏物語』はこうした現実の絶望を乗り越える第二の現実として紡ぎ出されたらしい。
1006年(寛弘3)暮れ(5年説も)、一条(いちじょう)天皇中宮彰子(しょうし)(藤原道長娘)のもとに出仕したが、その後も物語は書き継がれたらしい。『紫式部日記』は1008年9月の彰子の皇子出産(後の後(ご)一条天皇)を軸に自己の心境を交えて記したものである。一条天皇崩御(11年6月)ののちも式部は彰子の傍らにあったが、1014年(長和3)春ごろに没したらしい(1019年以降説もある)。『紫式部集』は晩年自ら編んだものと思われ、娘時代からの歌詠120首前後を収める。京都紫野(北区紫野西御所田(ごしょでん)町)に式部の墓と伝えるものがある。
[伊藤 博]
いづくとも身をやる方(かた)の知られねば憂(う)しと見つつも永らふるかな
『角田文衛著『紫式部とその時代』(1966・角川書店)』▽『清水好子著『紫式部』(岩波新書)』▽『稲賀敬二著『日本の作家12 源氏の作者 紫式部』(1982・新典社)』
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時。彼女は幼時に母(藤原為信の女)を失い,未婚時代が長かった。996年(長徳2)越前守となった父とともに北陸に下り,翌々年帰京,父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚,翌年賢子(のちの大弐三位(だいにのさんみ))を産んだ。1001年(長保3)夏に宣孝が死に,その秋ごろから《源氏物語》を書き始めた。05年(寛弘2)ごろの年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕した。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれるようになる。〈紫〉は《源氏物語》の女主人公紫の上にちなみ,〈式部〉は父為時の官職式部丞による。出仕当初は違和感に苦しんだらしいが,やがて中宮の親任を得て《楽府》の進講をした。また天皇が〈日本紀をこそ読み給ふべけれ〉と賞めたので,同僚から〈日本紀の御局〉とあだ名されたともいう。10年(寛弘7)夏ごろ《源氏物語》を完成し,さらに同年末までに《紫式部日記》をまとめたらしい。一条天皇没後も上東門院彰子に仕え,《小右記》長和2年(1013)5月25日条に〈為時女〉の文字が見える。同年10月ごろから長期間宮仕えを中断したあと,19年(寛仁3)1月に再び彰子のもとに出仕しているが,それ以降は明らかでない。晩年には仏教信仰に傾斜を加え,友人との贈答歌にも無常の色が濃い。日記を通じて見えるその人がらは,強烈な自我を根底としながら表面は慎ましく,調和と中庸を旨とするところがあり,複雑な性格と思われる。
伝承としては,(1)狂言綺語の罪によって地獄に堕ちたとするもの,(2)その裏返しの,紫式部は観音菩薩の化身とするもの,(3)石山寺に参籠の折,湖水に名月が映ったのを見て,〈今宵は十五夜なりけり〉と《源氏物語》を〈須磨〉巻の一節から書き起こしたとするもの,(4)その起筆は大斎院選子内親王から上東門院に珍しい物語をと注文されたためとするもの,(5)紫式部は道長の妾であったとするものなどがある。ことに(5)は近来その可能性が注目されているが,信用すべき根拠には乏しい。
執筆者:今井 源衛
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(山本登朗)
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生没年不詳。「源氏物語」「紫式部日記」の作者。生年は970年代,没年は1010年代と推測される。父は藤原為時,母は藤原為信の女。本名は未詳。女房名は藤式部(とうのしきぶ)。「源氏物語」の女主人公紫の上にちなんで,死後紫式部の呼称が生じたらしい。兄弟に惟規(のぶのり)がいる。藤原宣孝の妻となり,大弐三位(だいにのさんみ)を生む。「後拾遺集」以下の勅撰集に60首ほど入集。中古三十六歌仙の1人。学者で漢詩人の父に育てられ漢詩文の素養を身につけた。夫の死後に書きはじめた物語が高い評価をうけて,藤原道長の女上東門院(一条天皇の中宮)彰子に出仕。宮仕えの苦労が「紫式部日記」に記される。「源氏物語」の執筆はその後も継続され,虚構ではあるがすぐれた同時代史でもある。家集「紫式部集」。
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… この2首目の和歌は,前掲《古今和歌集》の藤原敏行朝臣の〈あまつ星とぞあやまたれける〉のパロディとして作られたものである。だが,いっぽう,紫式部の芸術的才能は,貴族支配のシンボルでしかないキクの花をみても,いっこうに晴れることのない深いゆううつに閉ざされていく個人的内面世界を表出せずにはいられなかった。《紫式部日記》に〈行幸ちかくなりぬとて,殿のうちをいよいよつくりみがかせ給ふ。…
…また,光圀の命を受け《万葉集》の注釈につき難波にたびたび契沖を訪れた。考証に優れた才を発し,その著《紫女七論》は紫式部伝の科学的研究の先駆として名高い。【南 啓治】。…
…54巻。作者は紫式部。
[構成]
現代では全編を三部構成と見る説が有力である。…
…この日記は藤原兼家の妻としての悲喜哀歓を克明に内面的に記しているが,《和泉式部日記》も敦道親王との愛の交渉を物語風に語る特異な作品である。一条天皇の時代(986‐1011)は女流文学の最盛期で,清少納言の《枕草子》は,日本文学史上最初の随筆文学として独自の美意識の体系を創出し,また紫式部の《源氏物語》は従来童幼婦女子の娯楽の具とされていた物語を男性知識人も無視することのできない創作文学へと高めた。和漢の先行文学を縦横に引用する格調高い文章によって書かれたこの作品は,壮麗な虚構の同時代史であるとともに深い人間省察の文学であった。…
…元輔の子といわれることをおそれて中宮に詠歌御免を請い,《清少納言集》《枕草子》《公任集》《和泉式部集》を通計して55首の自詠しか残さなかった寡作ぶり,道長方に内通するとのうわさにも争わずに里居にこもり,皇后亡きあとは人里離れた隠遁生活を送るなど,清少納言には意外な気の弱さが隠されていた。近世になって,晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が発生したが,これは,清少納言自身がひそやかな晩年を送ったという事実と,夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を《枕草子》に書きたてられたことを恨んだ紫式部が,その日記に清少納言の零落を予言するかのような酷評を残したこととが結合してのことである。【萩谷 朴】。…
…平安中期の女流歌人。父は山城守藤原宣孝,母は紫式部。本名賢子。…
…藤原氏北家の高藤系で,右大臣定方の曾孫,為輔の子。紫式部の夫。紫式部の父為時と為輔はいとこであり,宣孝と式部は,またいとこである。…
…紫式部の家集。少女時代から晩年ころまでの歌の自撰集。…
※「紫式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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