女性の手に成る文学。女流文学という文学上のジャンルがあるわけではないが,抒情的表現にすぐれた才能が示されることが多い一方,強い構成力を要する劇作ではすぐれた女性作家は近年までまれであったといえよう。17~19世紀のフランスにおけるサロン文学や,欧米の家庭小説などは女流文学の成果が結実した例であるが,日本の平安時代のように女流文学が隆盛をきわめた例は類をみない。近代になって女性の社会的地位が向上するに伴い,女性の文学活動も活発になり,今日では多くの国々ですぐれた女流作家が輩出している。
中世の歌合から20世紀の詩人ノアイユ夫人のサロンまで,フランスにおいては文人の集いを演出し彼らに刺戟を与えたり庇護したりしながら自らも創作する女性の活躍が,大きな流れをなしてきた。女流作家の嚆矢は12世紀に寓話詩,短詩を作ったマリー・ド・フランスである。中世末にはクリスティーヌ・ド・ピザンがいる。16世紀のマルグリット・ド・ナバールは乱世の文人・学者の庇護者,《エプタメロン》ほかの作者,思想家として特筆すべき存在である。詩人L.ラベも光る。17世紀は宮廷とサロンで文芸の隆盛をみ,《書簡集》のセビニェ夫人,《クレーブの奥方》のラファイエット夫人,ベストセラー小説《キュロス大王》ほかの作者スキュデリー嬢などが輩出した。18世紀のサロンはフランス各地で知的活動の推進力となり,女性の文筆活動も百科全書への協力,翻訳,論考など幅広くなる。デファン夫人,レスピナス夫人の書簡や,オーノア夫人comtesse d'Aulnoy,ボーモン夫人の仙女物語が知られる。19世紀には初頭の小説家・文芸理論家スタール夫人が,その後息の長い創作活動を続けたジョルジュ・サンドとともにロマン派文学の巨峰を成す。20世紀になると小説のG.コレット,哲学のS.ベイユをはじめ,現存の作家として《第二の性》のS.deボーボアール,初の女性アカデミー会員となったM.ユールスナール,F.サガン,M.デュラス等々が,広範囲に質量ともに注目すべき活躍を続けている。
執筆者:二宮 フサ
イギリス小説は,女性が男性と真に対等な活躍を見せる領域である。18世紀末から19世紀にかけ,中産階級の経済的上昇,教育の普及などによる女性読者の激増や,小説が未完成の分野であったことが,女流小説家の輩出を促した。F.バーニー,M.エッジワースを経てJ.オースティンにより確立されたイギリス女流小説の伝統は,女性独自の感受性と文体とにより,人間の,そして女性の生き方を真摯に追求し,風刺をこめて写実的に描き出す。19世紀中期にはG.エリオットがこの伝統に心理的要素を加味し,他方ブロンテ姉妹はロマンスの色濃い情熱的作品で独自の境地を開いた。彼女らの多くが実名を伏せたことは,当時の女流作家の困難な状況を物語る。20世紀には女性の地位と自覚の向上に伴い,作品は多彩斬新になる。第1次大戦後は内面的なV.ウルフやE.ボーエン,抒情的なK.マンスフィールド,特異な作風のI.コンプトン・バーネットらがいる。第2次大戦後は一般に物語性が回復され,M.スパーク,I.マードック,レッシングDoris Lessing,ドラブルMargaret Drabbleらが伝統に多様に対処し,イギリス文壇の主力となっている。詩では19世紀にE.ブラウニング,C.ロセッティ,20世紀前半にE.シットウェル,後半にジェニングズElizabeth Jenningsらがいるが,小説ほどの活況は見られない。
執筆者:青山 誠子
アメリカの女性たちは,植民時代の初期からアメリカ文学の形成にかかわってきた。ローランドソンMary Rowlandson(1635ころ-78ころ)やナイトSarah Kemble Knight(1666-1729)は日記によって植民地の経験の貴重な記録を残している。A.ブラッドストリートは植民時代の最も優れた詩人であり,女性の繊細さと強靱さで自己の内面を歌い続けた19世紀後半の最大の詩人E.E.ディッキンソンヘとつながっていく。小説の初期の時代に中心的な役割を果たしたのは《シャーロット》(1791)の作者ローソンSusanna Rowson(1762-1824)と《コケット》(1797)を書いたフォスターHannah Foster(1759-1840)の2人である。19世紀には多数の女性作家が現れ,その数は男性作家をはるかにしのいでいる。とくに世紀半ばには〈家庭小説〉というジャンルの作品が女性の手で数多く書かれた。代表的なものはウォーナーSusan Bogert Warner(1819-85)の《広い広い世界》(1850)である。この系譜上にストー夫人やL.M.オルコットがある。男性たちが願望の中のアメリカ像を描いたとすれば,女性たちは現実のアメリカ社会の姿を写し出した。この点が〈アメリカの夢〉を重視する批評家たちによって女性作家が無視された原因の一つである。このような社会とのかかわりで人間をとらえる姿勢は20世紀の作家たち,E.ウォートン,W.キャザー,E.グラスゴーにも引き継がれている。また,女性たちが地方色豊かな作品を生み出し地方主義文学の主要な担い手であることは無視できない。
執筆者:佐藤 宏子
胡文楷の《歴代婦女著作考》は,漢代から清末まで4000人余の女流著述家を著録するが,その中で文学史上とくに名を知られるのは,わずかに後漢の蔡琰(さいえん),唐の薛濤(せつとう),魚玄機,宋の李清照など数名にすぎない。その中では韻文の一ジャンルである詞において堂々の詩論をもつ李清照が独自の世界をうたいあげた出色の存在である。女流文学が散文や小説の分野で著しい活躍を示すのは20世紀初めの文学革命以後のことで,その代表的な存在が謝冰心(しやひようしん)と丁玲であるが,とくに丁玲は封建思想にあらがう新しい女性を描いて早くから注目された。1949年の解放後は,解放戦争の中で育った茹志鵑(じよしけん)が清新なリリシズムで広範な読者を獲得,また10年に及ぶ文化大革命の混乱のあと登場した諶容(じんよう),張潔などは,誕生後30年の社会主義社会における女性解放の問題を問いかけて注目を集めている。しかし総じていえば,草創期女流文学の特色として作者自身の〈私〉をまだ大きく離れていないのが共通した作風である。
執筆者:筧 久美子
《古事記》《日本書紀》《風土記》その他の神話伝説中に女性の歌は少なくないが,これらは伝承歌が特定の作者に結びついたものである。《万葉集》には女性の歌は約400首を数えることができ,磐姫(いわのひめ)皇后,斉明天皇,額田王,持統天皇,大伯皇女(おおくのひめみこ),大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ),笠女郎(かさのいらつめ),紀女郎,大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ),狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)らが著名であり,その他有名無名の歌人はほぼ150人で,万葉歌人中3分の1に達する。これら女流の歌も伝承歌が個人に付託されたにすぎない初期の段階から,しだいに個性豊かな詠作活動へと推移する。
平安時代初期の漢詩文全盛時代に和歌は公的世界では姿をひそめ,私的世界や民間において《万葉集》の相聞歌の伝統をひきついで旺盛に作られ伝承されていた。やがてかな文字の普及とともに宮廷世界に進出し,最初の勅撰和歌集《古今和歌集》が成立したが,この期の女流歌人としては小野小町や伊勢の活躍が著しい。以後,斎宮女御徽子女王,本院侍従,中務(なかつかさ),和泉式部,赤染衛門,伊勢大輔など多くの歌人が輩出したが,注目すべきは女性を作者とする,かなの日記文学,物語文学の隆盛であろう。紀貫之の《土佐日記》が女性に仮託されて書かれたことは象徴的であるが,これを受けた藤原道綱母の《蜻蛉(かげろう)日記》によって女流日記の道が開かれた。この日記は藤原兼家の妻としての悲喜哀歓を克明に内面的に記しているが,《和泉式部日記》も敦道親王との愛の交渉を物語風に語る特異な作品である。一条天皇の時代(986-1011)は女流文学の最盛期で,清少納言の《枕草子》は,日本文学史上最初の随筆文学として独自の美意識の体系を創出し,また紫式部の《源氏物語》は従来童幼婦女子の娯楽の具とされていた物語を男性知識人も無視することのできない創作文学へと高めた。和漢の先行文学を縦横に引用する格調高い文章によって書かれたこの作品は,壮麗な虚構の同時代史であるとともに深い人間省察の文学であった。なお紫式部には宮廷生活における見聞感想を記した《紫式部日記》がある。《源氏物語》の影響下に《栄花物語》のごとき歴史物語や数々の長・短編物語が女性の手によって作られた。《狭衣物語》の作者は六条斎院に仕えた女房宣旨と推定され,《浜松中納言物語》《夜半の寝覚(よわのねざめ)》の作者は菅原孝標(たかすえ)女とする所伝がある。その孝標女によって書かれた《更級日記》には,《源氏物語》への耽溺にはじまるものの,ついにはその物語世界と訣別するほかなかったわびしい人生が語られている。短編物語集《堤中納言物語》のなかの一編《逢坂越えぬ権中納言》は,天喜3年(1055)5月3日六条斎院家で催された物語歌合に際しての,女房小式部の手に成るものであった。《成尋阿闍梨母集(じようじんあじやりははのしゆう)》《讃岐典侍(さぬきのすけ)日記》のような女流日記の珠玉も忘れがたい。
鎌倉期に入ると,式子内親王,二条院讃岐,小侍従,宮内卿,俊成卿女などが歌人として活躍し,《新古今和歌集》に多くの名歌を残している。女流日記としては《建礼門院右京大夫集》《弁内侍日記》《中務内侍日記》や阿仏尼の《十六夜(いざよい)日記》《うたたねの記》などがあるが,ことに後深草院二条の《問はず語り》は特異な人生の赤裸々な記録であった。南北朝期にかけて書かれた日野名子の《竹むきが記》も女流日記の掉尾を飾るものとして注目される。《玉葉和歌集》《風雅和歌集》の歌人として永福門院鏱子や従二位為子ほか多くの作者を数えることができるが,以後公家勢力の後退とともに女流歌人の数も減少した。
近世になると印刷技術の普及によって出版書肆が誕生し,書物が商品として生産されるようになり,文筆に携わる者は男性の専門家に限られた。女性を対象とする啓蒙教訓書が数多く作られ,一般に女性の教養も高められたものの,その社会的地位とも関連して創作活動の道は閉ざされた。かろうじて詩歌の領域に女流が輩出した。蕉門の園女,智月,羽紅らが知名の女流俳人で,その他,女流句集《玉藻集》に名をつらねる女性は少なくない。加賀俳壇から出た千代女の名も忘れがたい。和歌の方面では祇園の三才女といわれた梶,百合,玉瀾,県門(賀茂真淵門下)の三才女といわれた鵜殿よの子,油谷倭文子(ゆやしずこ),土岐筑波子のほか,桂門(香川景樹門下)の柳原安子,高畠式部らが活躍した。荒木田麗は《池の藻屑》以下の歴史物語を著述したほか,物語・紀行・連歌等にも多彩の麗筆を振るった才女である。大田垣蓮月や野村望東尼(もとに)などの名も逸することができない。
執筆者:秋山 虔
文学の創作者としての男性と女性には巨視的に見て根本的な相違はない。しかし三島由紀夫は〈ナルシシズム論〉の中で,男性との違いがあることを説き,また瀬戸内晴美は〈女流作家になる条件〉で,性格・環境・態度・姿勢など,男性作家との相違点を認めている。明治・大正期には女性の教養や家庭環境などの条件に束縛されて,特異な才能をもつ一部の女流作家・歌人が輩出した。樋口一葉,与謝野晶子や《青鞜》のメンバー,宮本百合子,野上弥生子,平林たい子,佐多(窪川)稲子,林芙美子らの存在がそうであった。第2次大戦後は女性の社会的地位が向上し,男女同権の解放された自由な雰囲気と生活様式の変化によって,女流作家と女流文学の文壇進出が盛んとなり,女流文学者賞(1946年から。女流文学者会),女流文学賞(1961年から。中央公論社),女流新人賞(1958年から。中央公論社)などもその傾向に拍車をかけた。近年はノンフィクションや戯曲にもすぐれた書き手が登場している。
執筆者:長谷川 泉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
女性によって書かれた文学をことさら女流文学とよぶのは性差別だという意見もあるが、まさにその差別の歴史を振り返るためにも、女流文学史は未開拓の課題として提出されている。事実、日本は別としても、世界のどの国でも女性の社会的地位の低さが障害となって、古代・中世には女流文学は存在しない。
[平岡篤頼]
フランスでは16世紀にソネット詩人ルイーズ・ラベと物語作者マルグリット・ド・ナバールが現れるが、17世紀に絢爛(けんらん)たる宮廷文化が花開くとともに、『クレーブの奥方』(1678)のラファイエット夫人や『書簡集』のセビニェ夫人のような大作家が登場し、スキュデリ嬢の『大シリュス』10巻(1649~53)がサロンの評判となる。
これを契機に、ヨーロッパ各国で文筆をたしなむ女性が貴族社会を中心に陸続と現れるが、職業的女流作家の地位が確立されるのは、ブルジョア市民社会の成立する19世紀になってからである。しかも、この世紀の主導的な写実主義的思潮が、女性の資質に適合したため、イギリスでは『自負と偏見』(1813)のジェーン・オースティン、『嵐(あらし)が丘』(1847)や『ジェーン・エア』(1847)のブロンテ姉妹、『サイラス・マーナー』(1861)のジョージ・エリオット、アメリカでは悲恋の詩人エミリー・ディキンソン、フランスではジョルジュ・サンド、スウェーデンではラーゲルレーブといった不世出の作家を生み出した。20世紀に入ると、フランスのコレット、ボーボアール、サガン、イギリスのマードック、スパーク、ドイツのゼーガースと、注目すべき女流作家は枚挙にいとまなく、現代に至ってますます女流の活躍が際だってきている。ただ、女性特有の繊細な感情、微妙な心理の表出や生活環境の生き生きとした観察にみるべきものがあっても、社会的視野の狭さ、方法的追求の甘さのため、傑出した男性作家をしのぐに至ってはいない。その点、文学に本来的に内在する女性的原理を体現して、小説に新しい展望を開いたフランスのサロートやイギリスのV・ウルフらは例外といってよく、とくに『ロル・V・シュタインの歓喜』のデュラスは、女性の性意識と愛の境界に潜む狂気を追って、男性の作家たちの影響から脱皮した、本格的女流文学の確立を目ざし、大きな影響を残している。
[平岡篤頼]
日本における女流文学の本格的な開花は、紫式部、清少納言(せいしょうなごん)、藤原道綱母(みちつなのはは)、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)、和泉式部(いずみしきぶ)らが、物語や日記文学を書いた平安中期とされる。これらの作品群は、仮名の発明、普及によって成立したが、『万葉集』以来、多くの女流歌人を輩出させた和歌の伝統に負うところもきわめて大きい。またこれら女流のほとんどが、結婚や出仕によって、文芸の提供・享受が自在であり、取材の場にもなる上流階級に属していたことにも拠(よ)る。このような文化的環境が一般社会のなかに定着し、女性が自由に才能を伸ばす機会が与えられるようになるのは、遠く下って明治の近代市民社会の到来まで待たなければならなかった。
すなわち1887年(明治20)ごろ、開化政策による旧習打破の気運上昇に乗じ、まず近代的な女性像を求める中島湘烟(しょうえん)、木村曙(あけぼの)、三宅花圃(みやけかほ)らが現れた。ついで92年には樋口一葉(ひぐちいちよう)が登場、浪漫(ろうまん)的詩魂をもって時代の苦悩を深く表現し、1900年代の『明星(みょうじょう)』派の与謝野晶子(よさのあきこ)とともに近代女流文学の先駆をなした。明治末から大正にかけては野上弥生子(やえこ)、宮本百合子(ゆりこ)が知性派作家として出発し、大正・昭和の激動期に対峙(たいじ)して自己の信条を貫いた文学的業績は、その生涯とともに注目を浴びた。彼女らにやや遅れて林芙美子(ふみこ)、円地文子(えんちふみこ)、宇野千代、中里恒子(つねこ)、岡本かの子らが出て、固有の感情、人生認識による作品世界を展開、プロレタリア文学系では平林たい子、佐多稲子らが力強い仕事を残している。1945年(昭和20)第二次世界大戦の終結により、ようやく女性の社会進出の基盤がつくられ、女性も自由にものを書くことのできる時代を迎える。まず、前記の作家たちの再出発が始まる一方、曽野綾子(そのあやこ)、有吉佐和子(ありよしさわこ)らの新世代が台頭、また芥川(あくたがわ)賞、直木賞などの受賞者も輩出して、女流文学は活況を呈し始めた。その後の機械文明の急速な発達や、高度の情報化社会の反映による人間性喪失や解体が危惧(きぐ)された80年代には、新しい意識・手法による人間造型を試みる女流群が生まれた。河野多恵子(こうのたえこ)、倉橋由美子、大庭(おおば)みな子、高橋たか子、三枝(さえぐさ)和子、津島佑子(ゆうこ)、山田詠美(えいみ)らがその代表であり、続いて、高樹(たかぎ)のぶ子、中沢けい、干刈(ひかり)あがた、村田喜代子、木崎さと子、増田みず子、稲葉真弓、小川洋子、笙野頼子(しょうのよりこ)、長野まゆみ、よしもとばなな(吉本ばなな)、江國香織(えくにかおり)、鷺沢萠(さぎさわめぐむ)、高村薫(かおる)、乃南(のなみ)アサ、篠田節子、宮部みゆき、桐野夏生(なつお)らが、独自な世界を開顕しながら現代女流作家の可能性を提示している。
[岡 宣子・橋詰静子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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