藤岡作太郎(読み)フジオカサクタロウ

デジタル大辞泉 「藤岡作太郎」の意味・読み・例文・類語

ふじおか‐さくたろう〔ふぢをかサクタラウ〕【藤岡作太郎】

[1870~1910]国文学者。石川の生まれ。東大助教授。号、東圃文学史研究に力を注ぐ。著「国文学全史平安朝篇」「国文学史講話」「近世絵画史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「藤岡作太郎」の意味・読み・例文・類語

ふじおか‐さくたろう【藤岡作太郎】

  1. 国文学者。石川県出身。号東圃。東京帝大卒。体系的文学史研究によって近代の国文学研究の発展に寄与。また、美術にも深い理解を寄せ、日本絵画研究に業績を残した。東京帝大助教授の任なかばに死去。著作「国文学全史・平安朝篇」「近世絵画史」など。明治三~四三年(一八七〇‐一九一〇

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20世紀日本人名事典 「藤岡作太郎」の解説

藤岡 作太郎
フジオカ サクタロウ

明治期の国文学者 東京帝国大学助教授。



生年
明治3年7月19日(1870年)

没年
明治43(1910)年2月3日

出生地
加賀金沢(石川県金沢市)

別名
号=東圃,荳圃,李花亭,枇杷園

学歴〔年〕
帝大文科大学(現・東大文学部)国文科〔明治27年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔明治38年〕

経歴
明治27年「心学の伝統」を発表するなど早くから評論を発表していたが、小説「薄曇月橋物語」も27年に発表。28年大阪府立第一中学校に赴任し、さらに京都真宗大谷派中学校に転ずる。28年平出鏗二郎との共著「日本風俗史」を刊行。30年三高教授となり、33年東京帝大文科大学助教授に就任。また絵画にも造詣が深く、40年文展審査委員となる。他の著書に「近世絵画史」「国文学全史 平安朝篇」、「東圃遺稿」(全4巻)「藤岡作太郎著作集」(全4巻 岩波書店)などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤岡作太郎」の意味・わかりやすい解説

藤岡作太郎 (ふじおかさくたろう)
生没年:1870-1910(明治3-43)

国文学者。東圃と号す。金沢市出身。東京帝大国文科卒業。第三高等学校教授を経て1900年東京帝大助教授に就任し芳賀矢一を助けたが,在職10年にして病没。その講義は文学史の研究を主軸として国学,美術,評論,風俗などひろく文化史の諸領域にわたっての追究を特色としたが,これら講義が基礎となって《近世絵画史》(1903),《国文学全史平安朝篇》(1905)などの,現在なお規範性を失わぬ名著がまとめられた。《東圃遺稿》(4冊,1911-17),《藤岡作太郎著作集》(4冊,1946-55)などに収められた著述のほか《異本山家集 付西行論》(1906),《松雲公小伝》(1909)などの労作がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤岡作太郎」の意味・わかりやすい解説

藤岡作太郎
ふじおかさくたろう
(1870―1910)

国文学者。金沢市生まれ。東京帝国大学文科大学国文学専攻を卒業。大阪府第一中学校(現北野高校)、大谷第一中学校(現大谷高校)の教員を勤めたのち、1897年(明治30)第三高等学校教授に任ぜられ、1900年東京帝国大学助教授に就任したが、任なかばに死去した。『国文学全史 平安朝篇(へん)』は代表的著作だが、国学、美術、評論、風俗など、広く文化史の各領域にわたる史的研究に多大の業績をあげた。

[秋山 虔]

『秋山虔他校注『国文学全史 平安朝篇』全二巻(平凡社・東洋文庫)』『『国語と国文学 藤岡博士と国文学』(1940.4・至文堂)』『『近代文学研究叢書10』(1959・昭和女子大学)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤岡作太郎」の解説

藤岡作太郎

没年:明治43.2.3(1910)
生年:明治3.7.19(1870.8.15)
明治時代の国文学者。号は東圃,李花亭,枇杷園。金沢生まれ。父は通学,母はそと。帝国大学国文科卒。三高教授を経て,明治33(1900)年,東京帝大助教授。絵画にも造詣が深く,40年,文展の審査委員に任ぜられた。38年に著した『国文学全史/平安朝編』総論第1章にみえる「虚心平気,明治の社会を離れ,評者みずから平安朝の一人となりて,以てその時代を見る,蓋し正鵠を得るに近からん」という研究態度は,今日でも決して古びることのない正当性を有している。著書に『日本風俗史』(1895年平出鏗二郎と共著),『近世絵画史』(1903)。

(古田島洋介)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤岡作太郎」の意味・わかりやすい解説

藤岡作太郎
ふじおかさくたろう

[生]明治3(1870).7.19. 金沢
[没]1910.2.3. 東京
国文学者。号,東圃 (とうほ) ,李花亭など。第四高等学校を経て 1894年東京大学国文学科卒業。 1900年東京大学助教授,1905年『国文学全史 平安朝編』により文学博士。ほかに『日本風俗史』 (1895,平出鏗二郎と共著) ,『近世絵画史』 (1903) ,『国文学史講話』 (1908) ,『松雲公小伝』 (1909) など。没後『鎌倉室町時代文学史』 (1915) ,『近代小説史』 (1917) などが刊行された。『藤岡作太郎著作集』 (1946~55) がある。

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百科事典マイペディア 「藤岡作太郎」の意味・わかりやすい解説

藤岡作太郎【ふじおかさくたろう】

国文学者。金沢の人。東圃(とうほ)と号す。東大国文科卒。東大で国文学史を中心に,広く文化史諸領域について講じ,芳賀矢一とともに近代国文学研究の発達に大きな功績を残した。主著《日本風俗史》(平出鏗二郎と共著),《国文学全史平安朝篇》《国文学史講話》など。美術にも造詣深く《近世絵画史》の名著がある。著作集全4巻がある。
→関連項目藤井乙男

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤岡作太郎」の解説

藤岡作太郎 ふじおか-さくたろう

1870-1910 明治時代の国文学者。
明治3年7月19日生まれ。藤岡由夫(よしお)・通夫(みちお)の父。三高教授をへて,明治33年母校東京帝大の助教授。専攻の国文学史にくわえて美術史,神道史,国学史,風俗史などで業績をのこした。明治43年2月3日死去。41歳。加賀(石川県)出身。号は東圃(とうほ),李花亭,枇杷園(びわえん)。著作に「近世絵画史」「国文学全史 平安朝篇」。
【格言など】虚心平気,明治の社会を離れ,評者みずから平安朝の一人となりて,以てその時代を見る(「国文学全史 平安朝篇」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤岡作太郎」の解説

藤岡作太郎
ふじおかさくたろう

1870.7.19~1910.2.3

明治期の国文学者。号は東圃・李花亭・枇杷園。石川県出身。東大卒。第三高等学校教授などをへて,1900年東京帝国大学助教授。国文学史の研究にすぐれた業績を残す。主著「国文学全史平安朝篇」。41歳で夭折したが,死後門下生たちにより「東圃遺稿」全4巻が編まれる。

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367日誕生日大事典 「藤岡作太郎」の解説

藤岡 作太郎 (ふじおか さくたろう)

生年月日:1870年7月19日
明治時代の国文学者。第三高等学校教授;文学博士
1910年没

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