藤崎台
ふじさきだい
茶臼山は本丸からしだいに西に向かって低くなり、西端は舌状台地をなし、台地内部に二ノ丸屋敷から西にもう一つの舌状台地を乗せている。平安時代中期藤崎宮が台地先端部に勧請されたことから、この台地を藤崎台と称した。東は二ノ丸屋敷の西側を囲む空堀、西の台地先端は空堀で西の段山と区切られる。南は新一丁目番所から熊本城方面に上る法華坂、南西は新一丁目番所から台地突端まで山麓に掘られた空堀、二ノ丸屋敷北西端から西南に古京町より一段高く崖線が走る。
加藤氏代熊本城之図(「加藤清正伝」所収)や細川氏時代の絵図によると、二ノ丸西御門から茶臼山台地のほぼ中央を真西に走る通りがあり、神護寺・藤崎宮の北を通り、藤崎宮正門鳥居前に至り、南と北の山麓に坂を下る。この東西の中央通りを明治期(一八六八―一九一二)には宮内と称している。正門鳥居前から南に下りる坂道は、山麓外側の水堀を渡って段山口の勢溜を経て新町方面に行く道で、藤崎台地から水堀を渡る手前西側に薬師堂があったことから、薬師坂と称した。薬師坂は豊前・豊後街道の一つでもあった。また正門鳥居前から北へ下りる道は、東から山麓伝いに走る漆畠と合流し、段山との境道となって島崎方面に下る。この坂道を槙島坂と称している。西側に槙島邸があったことによるのであろう。二ノ丸西御門から出て、二ノ丸の南側屋敷の裏の空堀に沿い南北に通る道があり、二ノ丸屋敷の南崖縁に突当って西折して急坂を下り、新一丁目御門に至る。この坂道を法華坂と称し、豊前・豊後街道の一つでもあった。宮内通を二ノ丸の西空堀を過ぎ、約三五間ほど西に下る所から、北に入る柊木坂があり、藤崎台から古京町に至る唯一の道である。藤崎宮北側を通る豊前・豊後街道、法華坂を上って二ノ丸西御門前を通る豊前・豊後街道は、いずれも柊木坂を通るので、藤崎宮鎮座以来の道と思われる。さらに柊木坂より西に下がった所、藤崎宮敷地東端から北の崖縁に至る袋小路があり、藤崎宮と神護寺との間を南に入り、藤崎宮南側、六所宮との間を通って正門鳥居横に抜ける小路がある。
以上の通りや坂道・袋小路に沿って、武家屋敷や藤崎宮関係の屋敷地が配置されていた。加藤氏代熊本城之図によると、二ノ丸西御門を出て法華坂に下る道に沿い、豊前・豊後街道を監視し、二ノ丸西御門を防備する二屋敷がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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