表現主義美術(読み)ひょうげんしゅぎびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「表現主義美術」の意味・わかりやすい解説

表現主義美術
ひょうげんしゅぎびじゅつ

表現主義の思潮は、20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。最初絵画に始まって造形芸術一般に及び、さらに文学、演劇、音楽、映画などの諸分野に波及している。美術では、ゴッホゴーギャンの流れをくむ反自然主義、反印象主義の立場にたつが、このような立場は、現象よりもその背後にあるものを探求しようとするゲルマン的造形者にあっては伝統の気質であるといえる。したがってドイツ表現主義の思潮は、ナビ派と接触のあったノルウェーの画家ムンクのような直接の先達以外にも、ドイツの郷土美術や、自然叙情派や、世紀末のユーゲントシュティル運動のなかに多くの先駆者をもち、また15、6世紀にさかのぼるドイツ美術の伝統からも豊かな栄養をくみとっている。

[野村太郎]

ドイツの表現主義美術

ドイツ表現主義の最初の運動は、1905年ドレスデンの高等工業学校建築科の学生によって結成された「ブリュッケ(橋)」であった。キルヒナーヘッケルシュミット・ロットルフを創立メンバーとするこのグループは、ノルデペヒシュタイン、オットー・ミュラーらをメンバーに加え、のちにベルリンに活躍の舞台を移した。特定の理論を基盤とするグループではなく、その名称は若い世代の美術家を広く結集する橋渡しの意味で命名された。フォービスムに近い強烈な色彩と形態のデフォルメによる既成絵画への挑戦、感情の解放と自由への希求、若い生命力の燃焼にこのグループの特色がある。ドイツの伝統ともいえる表現力の強い版画の復興はこのグループの功績であり、とくに第一次世界大戦前夜の危機感をはらんで大都市化するベルリンの街頭風景を描いたキルヒナーの諸作は出色である。

 1909年、ミュンヘンカンディンスキーを中心として「新芸術家同盟」が誕生し、印象主義を奉ずる分離派の旧世代に対抗する勢力を結集した。同様な動きはベルリンおよびケルンにもおこっている。12年、週刊の文化評論雑誌『シュトルム(嵐(あらし))』の主幹H・ワルデンは、同名の画廊をベルリンに開設し、「橋」派を含むこれらの若い運動に連帯感を鼓吹した。さらにワルデンはシュトルム画廊で、「第1回ドイツ秋のサロン展」を開催(1913)し、20世紀初頭のヨーロッパのあらゆる前衛美術運動を結集しようと意図した。表現主義の名称はこうしたベルリンの文化的情況のなかで生まれ、ベルリンに集まった美術家、詩人、文学者、進歩的文化人らの合いことばとなり、普遍化された。「シュトルム」のサークルでは、ココシュカが内面透視的な肖像画で名をあげた。

 1911年ミュンヘンの「新芸術家同盟」から「ブラウエ・ライター(青(あお)騎士)」が派生し、カンディンスキーおよびマルクを中心としてマッケファイニンガー、クレーらがこれに属した。カンディンスキーは論文「芸術における精神的なもの」を発表して、精神的体験の表出をねらいとする抽象画を開拓し、マルク、マッケおよびファイニンガーは、ロベール・ドローネーとの接触を通じてキュビスム的な形態の分析、再構成を推進した。このグループは、多分にロマン主義的な意味合いにおいてではあるが、「諸芸術の統合」を理念として打ち出した集まりで、この意味では後のバウハウスの運動を先取りしている。十二音音楽の創始者シェーンベルクはこのグループの展覧会に参加し、年代記に寄稿している。12年の第2回青騎士展には、国外からピカソ、ブラック、ブラマンクラリオノフ、マレービチらも出品した。

 こうしてドイツ各地に高まった思潮は、危機的な時代を反映して、人間存在の深刻な内面の問題を鮮烈な色彩形態によって訴えたが、第一次世界大戦によってグループは四散し、以後は一人一派的な理念的追求を深め、ナチスによって「退廃芸術」として弾圧されるまで、ドイツ現代美術の主軸をなした。表現主義の孤独な探求者としては、ウォルプスウェーデの自然叙情派から出た女流画家モーダーゾーン・べッカー、べルリンの労働者街に働く医師の妻としてプロレタリア美術に先鞭(せんべん)をつけたケーテ・コルウィッツ、北ドイツの風土的気質の奥に潜む激情を多彩な宗教画、風景画、幻想画、花の絵、版画などにみごとに表現したノルデ、第一次大戦の従軍体験によって写実から力強い象徴表現への転換を遂げたベックマンらがいる。

 彫刻では、重厚な人間像のフォルムで宗教感情を表現したバールラハがおり、建築ではペルツィヒ、タウトらに表現主義思潮の影響が認められる。なお、ココシュカおよびバルラッハをはじめとして前記の表現主義の美術家のほとんどが、造形作品と同時に詩、小説、戯曲、旅行記、自叙伝などの文学的作品に筆を染めているのは特筆される。

[野村太郎]

表現主義美術の展開

ドイツ国外では、ベルギー表現派を代表する画家ペルメックConstant Permeke(1886―1953)、スイスの画家アミエトCuno Amiet(1868―1961)がおり、また広義にはフランスのルオー、グロメールをも表現主義とみなす立場もある。第二次大戦後、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの若い美術家が連帯して組織したグループ「コブラ」は表現主義の系譜を引くものと評価されるが、なかでもデンマークの画家ヨルンAsger Jorn(1914―73)の即興的表現は「橋」派に近い。また1950年代を風靡(ふうび)したアンフォルメルおよびアクション・ペインティングを総称して「抽象表現主義」の呼称もあり、さらに70年代の末からドイツに「新野獣派」Neue Wildenとよばれる主観的絵画表現の動きもある。

[野村太郎]

『E・ラトケ解説、遠山一行訳『現代の絵画12 ドイツ表現主義』(1974・平凡社)』

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