ロシア生まれのフランスの画家。叙情的抽象絵画の始祖というべき存在。12月4日モスクワの富裕な家庭に生まれ、最初は法律と政治学を学ぶ。1889年、ボログダ州に農村調査に出かけたときロシアの民族美術に感銘を受け、1895年にはフランス印象派展のモネに啓示を受ける。翌1896年ドルパト大学(エストニア)の法学教授の席を提供されたが、絵画に専心することを決意し、ドイツのミュンヘンに出て絵画を学ぶ。1900年、アカデミアでフランツ・フォン・シュトゥックに就く。1901年、芸術家集団「ファランクス(方陣)」を創立、その展覧会に出品。オランダ、イタリア、チュニジアなどを旅行後、1906年、パリ郊外のセーブルに約1年住む。ドイツに帰国後、ヤウレンスキー、クービンらとともに新芸術家協会を創立。このころの作品はもっぱら自然に即して描かれてはいたが、しかし、自然の与える情感を「心によって」描くこと、筆触と色彩を強調する主観的傾向を強める。
彼が「抽象」に接近するのは、1908年、ミュンターGabriele Münter(1877―1962)とともにバイエルン南部のミュルナウに住んでいたときである。ある夕方、アトリエに帰った彼は、壁面の1点の作品が「内的な輝き」に満ち、何が描いてあるかはわからないが、形と色だけで画(え)が成立していると感ずる。それは、彼の画が逆さにかかっていたものとすぐに気がつくが、以来、彼は対象が不必要だと悟り、色彩に表現のすべてを託し始める。『鐘塔のある風景』(1908年。パリ国立近代美術館)などでは、ほとんど対象は原形をとどめていない。ついで1910年『即興曲』あるいは『コンポジション』の水彩連作で、最初の純粋な叙情的抽象が成立する。油彩抽象の成立は1911年。この前後、彼は新しい絵画についての理念を執筆していたが、これが『芸術における精神的なもの』としてミュンヘンで出版(1912)される。
またF・マルクと出会い、新芸術家協会を脱退して、マルクとともに「青騎士」を創立するのも1911年である。これは本来「年鑑」の出版を目的とした編集部で、1912年5月に年鑑は出版されたが、それ以前、1911年および1912年の2回にわたって展覧会が組織され、ドレスデンの「ブリュッケ(橋)」派に続くドイツ表現主義ののろしとなる。1912年「嵐(デア・シュトルム)」画廊(ベルリン)で個展開催。しかし、第一次世界大戦によって表現主義運動も一時期後退し、カンディンスキーもロシアに帰った。
ロシア革命時には、芸術委員、アカデミーの教授など種々の活動に携わるが、1921年、芸術科学アカデミーの創設に携わったあと、同年末、故国を離れ、ドイツのワイマールのバウハウス教授となる。このころから、従来の流動的な筆触、形態にかわって、「象徴」「記号」としての確定的な形態を駆使した「叙情的幾何学主義」の様式が始まる。1926年『点・線・面』の刊行。バウハウスとともにデッサウ、ベルリンに移り、1933年のナチス政権によるバウハウス閉鎖後、パリ郊外のヌーイ・シュル・セーヌに移住。1939年にはフランスに帰化した。作風も、微細な有機的形態、奇妙な象形文字風の形を構成する最後の様式を展開させた。1944年12月13日没。彼の作品とその新しさが完全な評価を得たのは第二次世界大戦後であった。
[中山公男]
『西田秀穂他訳『カンディンスキー著作集』全4巻(1979/新装版・2000・美術出版社)』▽『H・K・レーテル、J・K・ベンジャミン編、西田秀穂他訳『カンディンスキー 全油彩総目録』全2冊(1987、1989・岩波書店)』
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おもにドイツで活動したロシア出身の画家。モスクワに生まれ,法学,経済学を修めたのち,30歳の時に画業を志してミュンヘンへ出る。1909年に〈ミュンヘン新芸術家協会〉の設立に加わってその代表者となり,前衛美術を推し進めた。また11年にはドイツ表現主義を代表するグループのひとつ〈ブラウエ・ライター(青騎士)〉を創設。第1次大戦勃発によってロシアへ戻り,18-21年は革命政府の芸術政策に協力。21年ドイツへ戻り,翌年から33年まで,ワイマール,デッサウ,ベルリンでのバウハウスの教授を務める。33年,バウハウス閉鎖を機にフランスへ亡命,39年帰化し没するまでパリ郊外に暮らした。その画風は,初期の印象主義的なもの,ユーゲントシュティール的なものから,色彩を強調し形態をデフォルメする表現主義的なものへ移行し,さらに10年ころからは,対象の形態の具体的な描写がほとんど見られない抽象的なものへと進んでいった。そのことから,モンドリアン,クプカFrantišek(Frank)Kupka(1871-1957),マレービチらと並ぶ,抽象絵画の創始者の一人と目される(抽象芸術)。しかし,他の画家たちがキュビスム的分析を経て,純粋に造形的な見地から抽象絵画の道へ進んで行ったのに対し,彼の場合,抽象絵画を導いたのは彼独特の宗教的・神秘主義的主題であり,その主題が呼びさます内的イメージをいかに自由かつ強烈に画面に表現するかという問題こそが重要であった。すなわち,彼は,内面の思索や情動をどれほど感情豊かに見る者に伝えてくれるかという観点から,色彩や形態を選んだ。彼の作品は,アメリカの抽象表現主義の先駆として,第2次大戦後の前衛美術に多大の影響を与えた。《芸術における精神的なものについて》(1912),《点,線から面へ》(1926)など著作も多く,理論家としても影響力大であった。
執筆者:有川 治男
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1866~1944
主としてドイツで活動したロシア生まれの画家。「抽象絵画の父」と呼ばれ,表現派の代表的人物。非対象的な絵画を最初に試みた一人であって,色彩と線により空間と時間を表現した。
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…アバンギャルドとは,一般にはこの前衛芸術のことをいう。 その源流はランボー,ロートレアモン,ネルバルら,社会から疎外される不幸を現実から自由な想像力の起点に転じた,19世紀の〈呪われた詩人たち〉で,ベル・エポックに文明の終末と人類の黙示録的解放をうたったアポリネールや,精神生活の二等辺三角形のうち,孤独な頂点にいる芸術家は〈精神の内的必然性〉に従えば,底辺にいる大衆の未来の生活感情を先取りできると説いたカンディンスキーの著書《芸術における精神的なもの》(1912)をはじめ,20世紀初頭のフォービスム,キュビスム,表現主義,未来主義,シュプレマティズム,構成主義などの芸術運動には,この概念がすでに潜在していたといえる。だが,第1次大戦中におこったダダは,嫌悪と自発性を原理として,芸術のタブラ・ラサ(白紙状態)への還元を求め,あらゆる物体や行為も芸術作品たりうることを立証した点で,カンディンスキーの精神の三角形を逆立ちさせた観がある。…
…1907年にドレスデンで,当時結成されてまもない表現主義グループ〈ブリュッケ(橋)〉の展覧会を組織したのをはじめ,以後作家との交友に基づく数多くのすぐれた研究や評論を発表し,現代ドイツ美術の声価を国際的に高めるうえでも大きな功績を残した。著作としては,友人でもあったクレーとカンディンスキーの大部のモノグラフ(それぞれ1954,1958)がよく知られ,その他戦後ヨーロッパ美術を総観した《現代の美術》(1966)などもある。【千足 伸行】。…
…ムンクの《叫び》(1893)は表現主義芸術の先駆的かつ象徴的な作品であり,それを含む〈生命のフリーズ〉連作は1902年のベルリン展で多大の反響を呼び,世紀末芸術の装飾性を打ち破る表現主義美術運動に大きな刺激を与えた。運動の担い手となったのは,05年にドレスデンで結成されたキルヒナーらの〈ブリュッケ(橋)〉派と11年にミュンヘン新芸術家協会から分離したカンディンスキー,マルクらの〈ブラウエ・ライター(青騎士)〉派である。〈ブリュッケ〉派は無垢な自然を対象に赤裸な生命の表現を志し,その源泉を中世の古版画と民俗博物館の未開人彫刻や仮面に求め,フランスのフォービスムと類似の野性的な様式を発展させた。…
…カンディンスキーとマルクFranz Marc(1880‐1916)により編集され,1912年にミュンヘンで創刊された年刊誌。〈ブラウエ・ライター〉とはまた,同誌に参加した芸術家グループの名称で,彼らの運動は,先立つ〈ブリュッケ〉グループとともに,表現主義の一翼をになった。…
※「カンディンスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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