フランス後期印象派の画家。印象主義的画風から出発し、浮世絵、ロマネスク彫刻、民俗工芸など多角的な影響のもとに、新しい画風を形成し、その象徴主義的テーマ、装飾的な画面構成、主観性の強い色彩などの点で、ナビ派などに直接影響を及ぼしたのみならず、現代絵画にも多くの啓示を与えた。また、その二度のタヒチ行きに彩られる波瀾(はらん)に富む人生は、ゴッホのそれとともに、19世紀末の芸術家の悲劇的な疎外を代表するものである。
1848年6月7日パリに生まれる。母方の祖母にサン・シモン派の女権論者フローラ・トリスタンがいる。父が共和主義のジャーナリストだったので、ルイ・ナポレオンのクーデターのとき、一家をあげて南米ペルーに亡命。その船中で父を失い、叔父のもとに身を寄せる。この幼年期のリマ滞在の思い出は、後の彼の画作の一つとなる。1855年帰国後、1865~1871年の間、船員として南米、スカンジナビア航路の商船に乗り組む。1871年より、パリの株式仲買商ベルタンPaul Bertin(1832―1913)の店員として勤務。デンマーク人メット・ガットMette-Sophie Gad(1850―1920)と結婚し、5子をもうけ、かなりの年収を得る豊かな生活を送るが、その間C・ピサロと知り合い、印象派の作品の収集を行うかたわら自らも描き、1876年のサロンに出品、1879年から印象派展にも出品。おそらくその自信と、他方で経済恐慌による商売の先行きへの不安から、1883年ベルタン商会を退職し、絵画に専念することを決意。しかし、彼の目算は外れ、ルーアン、コペンハーゲンと彼の困窮の生活が続き、妻とは別居状態となる。しかし、1886年の印象派展には19点の油彩を出品し、すでに彼の画風の独創性をみせている。
同年夏、ブルターニュのポンタバンに最初の滞在。翌1887年マルティニーク島に滞在。すでにこの時期から、浮世絵やセザンヌの啓示下に画風に変化がおこり、1888年の二度目のポンタバン滞在では『ヤコブと天使の格闘』(エジンバラ、スコットランド国立美術館)などによって総合主義を確立した。同年秋、アルルでのゴッホとの共同生活、1889年にはカフェ・ボルピニでのグループ展。1889~1890年には、ポンタバン派のリーダーとして、ポンタバン、ル・プールデュで制作。また、象徴派の文学者によっても支援され、カフェ・ボルテールの集いにも出入りし、同時代の象徴主義芸術の旗手の一人となった。
1891年、作品の売り立てを行い、第1回のタヒチ行きを実現。野性を求めたこの冒険は、彼にある種の幻滅を味わわせたが、『われマリアを拝す』(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)などの成果、あるいは著作『ノア・ノア』(シャルル・モリスCharles Morice(1861―1919)編で1897年より『ルビュ・ブランシュ』誌に掲載)を実らせる。1893年帰国、1895年再度のタヒチ行き。ふたたび困窮、土地の官憲との抗争、病気のなかでの制作が続いた。しかし、『ネバ・モア』(1897年。ロンドン、コートールド美術館)、『われらいずこより来たり、いずこへ行くか』(1897年。ボストン美術館)など、もっとも充実した制作がなされる。1898年には自殺を試みて失敗。しかし、その後ボラールAmbroise Vollard(1866―1939)や若干の愛好家たちの援助によって多少のゆとりを得て、『花を抱える娘(二人のタヒチの女)』(1899年。メトロポリタン美術館)などの魅惑的な作品を制作。概してこれらのタヒチ時代の作品は、かならずしも同地の風俗の忠実な描写ではなく、さまざまな発想源から構想されたもので、楽園の神話を求めるゴーギャンの内面の産物である。
1901年、マルケサス諸島のヒバ・オア島のアトゥアナに移り、1903年5月8日、同地に没した。ゴーギャンは前述の『ノア・ノア』以外にもいくつかの著作を残したが、彼自身の生涯と作品に関するなかば小説的な回想『アバン・エ・アプレ』はアトゥアナでの著作。1903年のサロン・ドートンヌでの回顧展は、その後のゴーギャンの評価と影響の契機となった。また画作以外に、木彫、陶器、版画など多様な技法を試みたが、これらもゴーギャンの芸術の重要な側面である。
[中山公男]
『R・ゴールドウォーター著、嘉門安雄訳『ゴーガン』(1961/新装版・1994・美術出版社)』▽『大島利治訳「ノア・ノア――タヒチ紀行」(『人生の名著19』所収・1968・大和書房)』▽『粟津則雄解説『現代世界美術全集7 ゴーギャン』(1970・集英社)』▽『前川堅市訳『ゴーガン私記 アヴァン・エ・アプレ』(1970・美術出版社)』▽『アンリ・ペリュショ他著、西沢信弥訳『世界伝記双書 ゴーギャン』(1983・小学館)』
フランスの画家,彫刻家。後期印象派を代表する一人。ゴーガンとも呼ばれる。パリに生まれ,マルキーズ諸島のアトゥオナAtuonaで没。父は共和派の政治記者,母は,サン・シモン主義者でフランス婦人運動の先駆者F.トリスタンの娘。ゴーギャンの生涯は最初から数奇なものだった。1849年,ルイ・ナポレオンのクーデタによる迫害を恐れた一家は,富裕な親類を頼って,ペルーのリマに逃れる。55年,帰国するまで,この異国の都でゴーギャンは幻想的で,恵まれた子ども時代をすごす。65年から71年にかけて,最初は水夫,ついで水兵と大部分を海ですごしたが,71年より株式仲買人としてめざましい働きをみせる。一方,この頃より,後見人の,実業家で高名な美術収集家アローザGustave Arosaの影響のもとに,美術に大きな関心を示し,日曜画家の道を歩きはじめる。74年,ピサロを知り,印象派の作品の収集にも心がける。76年,サロンに初入選。79,80,81,82年の印象派展に出品。ゴーギャンの芸術家としての生涯は83年,株式仲買人をやめて,画業に専念することを決意したときにはじまる。生活はただちに困窮したが,画面はしだいに独自性を強め,初期の印象派風のものから,理知的な画面構成と装飾的な色彩を調和させた,文学性の濃い,いわゆる象徴主義絵画へと展開してゆく。これは世紀末特有の中世趣味と無縁ではない。86年,第8次にして最後の印象派展に出品したのち滞在したブルターニュの小村ポンタベンの,ひなびた中世風のたたずまいはゴーギャンを強くひきつけた(ポンタベン派)。翌87年のパナマ,マルティニク島滞在で南国の強烈な光に触れて獲得したゴーギャンの色彩は,88年夏,再度のポンタベン滞在において内面的な深みを帯びることになる。その色彩は,簡潔ではあるが重厚な形態に平坦に区分され,《ヤコブと天使の争い》(1888)にみられるような宗教的ともいえる精神性を生みだした。浮世絵版画,エピナル版画,ステンド・グラス等に影響されたこうした区分主義(クロアゾニスムcloisonnisme)により,〈主調色にのみ注目しつつ行われる,形と色彩の総合〉が可能となり,画面全体は暗示にとんだ,まさに総合的な装飾性を獲得する(総合主義またはサンテティスムsynthétisme)。こうして88年から90年にかけて,〈ゴッホの耳切り事件〉に結末をみるアルルでのゴッホとの共同生活をはさみ,一連の象徴主義的な傑作,すなわち《黄色いキリスト》(1889),《処女喪失》(1890),《恋する女たちであれ》(木彫,1889)等が制作され,ゴーギャンは象徴主義絵画の第一人者と目される。しかしながら,ヨーロッパの腐敗した文化,社会にあきあきしていたゴーギャンは,失われた楽園を求めて,91年タヒチに旅立つ。以後,一時は帰国したものの(1893-95),かの地にとどまり,畢生の大作《われわれはどこから来たのか。われわれは何か。われわれはどこへ行くのか》(1897)をはじめとして,人間存在の意味を深く問いただす多くの作品を制作する。ゴーギャンのこうした思想的側面は正しく継承されたとはいえないが,その音楽的ともいえる自在な色彩は,ナビ派,フォービスムの画家たちに強い影響を与えた。
執筆者:本江 邦夫
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…また,紅唇の厚さは人種によっても異なり,たとえば黒人のは厚く突き出し,北米インディアンのは薄く口裂が長い。ゴーギャンははじめ《夜会服のメット・ゴーギャン》や《マドレーヌ・ベルナール》などで西欧人に典型的な唇を描いたが,タヒチに移住して後は現地人の厚く大きな唇を好んで描き,手記の中で唇の美の規準も相対的なものであることを述べた。 人の唇は他の霊長類に比べて厚く外へめくれている。…
…フランスでもパリの市民はけんか好きで,たわいないことで知らぬどうしでさえけんかをした。画家ゴーギャンはパリでけんかをして,足を傷つけられたのが原因でタヒチ島へ行ったのだし,ゾラの小説《居酒屋》中の女どうしのけんかもパリの人たちのけんか好きを証している。江戸時代から明治末ころまでは,少年,青年のレクリエーションとしてけんかをする風習があった。…
…日本では,〈後期印象派〉という訳語はすでに大正期にみられたが,適切とは言えず,〈印象派以後〉と理解すべきものである。展覧会の出品作家は,マネを特例として,ゴーギャン,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,ナビ派(ドニ,セリュジエ),新印象主義の画家たち(スーラ,シニャック,クロスHenri‐Edmond Cross),フォービスムの画家たち(マティス,マルケ,ブラマンク,ドランら)といった,印象主義から出発し,それをこえようとした雑多な画家たちであり,そこには表現主義的な傾向が顕著とはいうものの,格別の枠組みがあるわけでもなく,〈Post‐Impressionists〉は,フライ自身も言うとおり,あくまでも便宜的な呼称にすぎなかった。この呼称が主として英語圏でしか用いられないのはこのためである。…
…事実,88年,そもそもゴッホは,日本のイメージを求めて南仏のアルルへと向かったのであった。いわゆる〈ゴッホの耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活を別にすれば,アルル時代はゴッホにとって実り豊かなものであった。この時期の《ひまわり》《麦畑》《糸杉》などでは,ぎらぎらした量感ある色彩とうねるような筆触によって,原初的ともいうべき自然のエネルギーを画面に噴出させ,また《夜のカフェ》(1888)では,強烈なコントラストによって,カフェにたむろする人間存在の狂気すらあばきだした。…
…たとえば,ゴッホは意図して色彩を象徴的に用いようとしたし,純粋科学から出発したスーラの点描,ディビジヨニスムもふしぎな神秘的雰囲気を醸し出すにいたり,ベルギーの〈レ・バン〉やイタリアのセガンティーニに影響を及ぼした。91年,フランスの美術批評家オーリエGeorges Albert Aurier(1865‐92)は,初めて絵画に対して〈象徴主義〉という言葉を用いたが,その主張の根拠になったのはゴーギャンであった。ゴーギャンは主題よりも画面構成や色彩によって象徴主義を実践しようとし,ベルナールÉmile Bernard(1868‐1941)らとブルターニュのポンタベンでクロアゾニスムcloisonnismeを創始した(ポンタベン派)。…
…90年代に流行したアール・ヌーボー(新しい芸術)は,ひとりヨーロッパにとどまらずアメリカから日本まで風靡したが,それが一名ユーゲントシュティール(青春様式)とよばれたのもこの間の消息を伝えるものである。ともあれゴーギャンはタヒチ島に渡り,ゴッホは片田舎のアルルで制作した。セガンティーニはアルプスに住みつき,フランスのポンタベンやドイツのウォルプスウェーデといった辺境に芸術家コロニーがつくられた。…
…この母の求めに応じてのむりやりの結婚は25年に破れ別居。3人の子どものうち末娘は画家ゴーギャンの母となる。34年にペルーに赴き父の遺産の相続を伯父に申し出るが,父母の結婚が登録なきものだったために拒否される。…
…ラジオ放送局,病院などがある島の中心アトゥオナには,1904年からフランスのマルキーズ統治の本拠が置かれていたが,40年代にヌクヒバ島のタイオハエに移された。画家ゴーギャンはここで亡くなった。【石川 栄吉】【斉藤 尚文】。…
…フランス19世紀末,1888年から89年にかけて,ブルターニュの小村ポンタベンでゴーギャンを中心に形成された一種の画派。ゴーギャンの《説教のあとの幻影》(1888)は,その代表的作例。…
※「ゴーギャン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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