フランスの画家。フラマン人のバイオリン奏者を父に、フランス人のピアノ奏者を母として、パリの貧しい家庭に生まれる。パリ近郊ル・ベジネの祖母の家で成長。音楽の訓練を受け、数年間音楽を教えたり、オーケストラで演奏したりして生活費を稼ぐ。また、1893年から96年まで競輪の選手としてかなりの収入を得た。その間、ル・ベジネの馬具作りや、あるアカデミックな画家からデッサンの手ほどきを受ける。97年から1900年まで兵役に服したが、そのときの経験から、除隊後はパリのアナキストのグループに加わったりもした。1900年アンドレ・ドランと出会い、2人はパリ近郊のセーヌ河畔のシャトゥーに共同のアトリエを設けて制作に励み、やがてシャトゥー派としてフォーブのグループの一翼を担うことになる。翌01年、ベルネーム‐ジュヌ画廊でのゴッホ展に感銘を受け、以後、後期印象派の影響のもと、しだいに強烈な色彩と激しい筆使いによる表現主義的な絵画を描くようになる。とはいえ、彼がゴッホの作風を十分に消化し、真の個性的スタイルを確立するのは、05年のアンデパンダン展でのゴッホ回顧展以後のことである。同じ05年、フォービスム誕生を告げるサロン・ドートンヌに出品、フォーブの一員となる。しかしその強烈な色彩は、07年のセザンヌの作品との出会いを機に輝きを失い、構成的な方向に向かい、さらに10年には、短期間ながらキュビスムにも足を踏み入れた。その後まもなく自らの気質により適合したスタイルを確立。黒、藍(あい)、白を基調にした暗く重苦しい色彩によって劇的で激しい風景や静物を描き、その作風は生涯かわることがなかった。
[大森達次]
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フランスの画家。パリに生まれ,1879年ル・ベジネLe Vésinetに移る。独学で絵画を学び,1900年ドランに出会い,05年,フォービスムの発祥となったサロン・ドートンヌに参加。ゴッホに深く傾倒し,ドランらとともにフォービスム形成に大きな役割を担う。10年ころセザンヌの造形に影響をうけ,キュビスムに向かうが,その後,彼の体質によりふさわしい暗い色彩,激しい筆触で,フランス的表現主義というべき風景画を制作。日本人画家では,佐伯祐三と里見勝蔵が直接師事し,荻須高徳らにもその影響が及んだ。
執筆者:中山 公男
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…もっとも,〈フォーブ〉の形容そのものはボークセル以前にすでに用いられていたようである。サロン・ドートンヌの他の展示室には,前記の画家たち以外に,同じ表現傾向をもつドラン,バン・ドンゲンKees van Dongen(1877‐1968),ブラマンク,デスパニャd’Espagnat,フリエスOthon Friesz(1879‐1949),ラプラードPierre Laprade(1875‐1931),ピュイJean Puy(1876‐1960),バルタLouis Valtat(1869‐1952)たちが出品していた。フォービスムの基本的な方向は,何よりも原色の大胆な使用,〈新しい色彩の結合〉によって特徴づけられる。…
※「ブラマンク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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