西袋村(読み)にしぶくろむら

日本歴史地名大系 「西袋村」の解説

西袋村
にしぶくろむら

[現在地名]余目町西袋

大野おおの村の東、北流する京田きようでん川東岸にあり、中央を松山まつやま(現飽海郡松山町)への道が通る。地名は京田川の蛇行によって袋状になっていたことに由来すると考えられている。暦応三年(一三四〇)正月二四日の安保光泰置文(安保文書)にみえる海辺余部あまべあまるべの内の袋郷は当地の付近か。同郷は阿佐丸あさまる郷などとともに光泰から次男直実に譲られている。「筆濃余理」によれば、郷蔵屋敷と流泉りゆうせん寺境内は西袋左内の居館跡としている。近世以後の集落は、元和九年(一六二三)佐藤善左衛門の開村と伝える。北楯大きただておお堰の幹川余目大堰から分水した十四じゆうよんそん堰に西袋村堰を設けて開発が進められた。

西袋村
にしぶくろむら

[現在地名]八潮市西袋・中央ちゆうおう

古綾瀬ふるあやせ川の氾濫原の沖積地に位置し、北は柳之宮やなぎのみや村、西は綾瀬川の旧河道伝右でう川を隔てて足立郡瀬崎せさき村・吉笹原よしささはら(現草加市)。村名の由来は足立郡へ袋状に突き出している立地にちなむという。柳之宮と当地との境にある氷川神社付近から東海系の様式をもつ弥生時代末期から古墳時代初期の土器が採集されている。田園簿では田方一三八石余・畑方五五石余、ほかに野銭永四〇一文があり幕府領(幕末に至る)。天保六年(一八三五)の八条領村鑑(小沢家文書)によると、元禄八年(一六九五)の検地で高二〇一石余、反別は田方二五町九反余・畑方一九町六反余、宝暦二年(一七五二)の古綾瀬川跡の新田検地では高一二石余(反別二町七反余)、同三年の新田検地では高二五石余(反別五町一反余)、用・排水は八条用水組合・綾瀬川筋藻刈組合に所属。

西袋村
にしぶくろむら

[現在地名]福井市西袋町

文殊もんじゆ山東麓にあって生部いけぶ村の西に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では徳光とくみつ保に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方五〇七石・畠方六三石余。福井藩領。当村から西南大正寺だいしようじ(現鯖江市)に向かう文殊山越にえのき(標高一三六メートル)がある。中世には朝倉街道が通り、旅人往来で賑ったという。この坂に南無妙法蓮華経と刻まれた題目岩があり、弘治年間(一五五五―五八)一乗谷慶隆けいりゆう院の日諦の筆になるという。

西袋村
にしぶくろむら

[現在地名]鯖江市西袋町

水谷みずたに山の東南麓に位置する。南は片山かたやま村・小坂こさか村。砥山とやまから発する金谷かなだに川、しろ山から発する椿坂つばい川は当村で合流し天神てんじん川となる。「越前国名蹟考」は枝村として椿坂を記す。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方九七七石余・畠方一九〇石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となる。同六年の庄境組三三ケ村明細帳(市橋家蔵)によれば、上田二〇町三反余・中田六町余・下田一五町余、屋鋪一町六反余、上々畑一町余・上畑四町五反余・中畑三町一反余・下畑一町余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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