観音堂跡(読み)かんのんどうあと

日本歴史地名大系 「観音堂跡」の解説

観音堂跡
かんのんどうあと

[現在地名]狭山市笹井

滝音山泊山寺と号し、旧本山派修験本尊は十一面観音。篠井ささい(佐西・佐々井)観音堂と通称された。「風土記稿」には寺伝として、大同二年(八〇七)役小角が諸山修行中当地山中で瀑布水の声が聞え、奇異に思い合掌すると瀑布水の上に不動明王が現れ、その教えに従い不動尊を彫り霊場を開いた。山号の滝音山は役小角が滝音を聞いたことに由来する。永久年間(一一一三―一八)近江三井みい寺行尊が再興。行尊が持参した十一面観音は村上天皇の頃から朝廷にあった守仏で、白河院から賜ったものという記載がある。ただし現在伝わるのは文政五年(一八二二)の銘がある木造の十一面観音像で、胎内仏の鋳銅十一面観音像(篠井家蔵)には延文三年(一三五八)一〇月一五日の銘があり、ともに寺伝にみられる観音像ではない。

中世から先達として武蔵の修験のなかでも中心的な役割を果した。文明一八年(一四八六)本山派修験京都聖護しようご院の門跡道興が東国に来遊した際、「佐西の観音寺といへる山伏の坊」へ四、五日逗留し、近辺を遊覧している(廻国雑記)

観音堂跡
かんのんどうあと

[現在地名]草津市下寺町

下寺しもでら町の天満宮や観音堂境内付近に位置した。一帯には古瓦が散布し、天満宮の社務所前には礎石が横転し、すぐ北にある常教じようきよう寺の境内にも同形の礎石が残るなど、付近一帯に古代寺院のあったことは早くから知られていた。周辺には栗太くりた郡条里とは方向を異にする二町四方の規模をもつ地割があり、寺域を示すものとされていたが、昭和五〇年(一九七五)・五一年の発掘調査で確認された。寺域南限からは一〇メートル前後を隔てて幅四メートルの外側溝と幅一・三五メートルの内側溝が並行して発見され、西限も幅三メートルの外側溝と幅一・六メートル前後の内側溝が並行して見つかった。東限および北限は寺域の北東隅の調査で、幅四―五・五メートルの東西溝と幅三・六メートルの南北溝が交差して検出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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