角川村(読み)つのがわむら

日本歴史地名大系 「角川村」の解説

角川村
つのがわむら

[現在地名]戸沢村角川

現戸沢村の南半を占める。集落は出羽山地の谷間を北流し、古口ふるくち村で最上川左岸に注ぐ角川本流や支流沢内さわうち川などの流域に点在。東・南は南山みなみやま(現大蔵村)。新田本村鑑は枝郷として中沢なかざわ滝下たきのした鹿沢かのさわ十二沢じゆうにさわ沢内本屋敷もとやしきはたけ勝地かつち平根ひらね片倉かたくら綱取つなとり田代たしろ・亜戸(明戸)長倉ながくらなど三〇郷をあげる。角川沿いの段丘上には中沢上本郷かみほんごう寺台てらだいなど縄文時代の集落遺跡が多数分布する。慶長一七年(一六一二)清水しみず(現大蔵村)城主清水義親は斎藤甚兵衛に「角川之内」二千刈など計三千刈を与えている(「知行村付」斎藤文書)


角川村
つのがわむら

[現在地名]河合村角川

小鳥おどり川とみや川の合流点河岸段丘上にあり、地名もこの地形によると思われる。東対岸は落合おちあい(現宮川村)、南は小無雁こむかり村・芦谷あしだに村。「教言卿記」応永一四年(一四〇七)三月一七日条に「飛騨向角河ヨリ布十端、馬絹五具到」とあり、同書同一六年六月六日条に「飛州角河ヨリ笋千箱到」とあり、向小島むかいこじま(現古川町)城主向家熙が上洛に際し、布や筍などを献上している。中世には現河合村全域と現古川ふるかわ町の西部は向小島とか飛騨向とよばれ、向家熙の支配地で、角川に下司をおいて管理させていたと思われる。現在小字として間所まどころ(政所)や中しょうじ(中庄司)などがあり、下司の所在を推測させる。現上宝かみたから田頃家の永昌たごろけのえいしよう寺蔵の大般若経巻五五〇の嘉暦元年(一三二六)の奥書に「吉城郡角川村大願大徳良通」とある。

慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳によれば、小鷹利こたかり郷に属し、田方四六五石余・畑方二三三石余、物成合二〇九石余とあり、近村を含めた高と思われる。


角川村
つのかわむら

[現在地名]五色町都志角川つしつのかわ

万歳まんざい村の南にあたり、西に海岸が約一六町続く。角川がほぼ北へ流れ北西で海に注ぐ。村域は三つの谷で区切られ、北部北の谷きたのたには都志八幡宮、中部中の谷が広石ひろいし八幡宮、南部南の谷が鳥飼とりかい八幡宮を各々産土神としていた。傍示ははま長池谷ながいけだにさと鼠谷ねずみだにの四つに分れている(味地草)正保国絵図に村名がみえ、高三二八石余。天保郷帳では高六九六石余。


角川村
つのがわむら

[現在地名]今津町角川

石田いしだ川最上流にあり、南は保坂ほうざか村。保坂村・追分おいわけ村・途中谷とちゆうだに村の本郷で、保坂村・追分村は承久年間(一二一九―二二)角川土佐守照親が開発して枝郷とし、途中谷村は照親の孫の開発と伝える。寛永石高帳に高三五〇石余とあり、旗本朽木(本家)領。慶安高辻帳では田方一七七石余・畑方一七二石余、ほかに小物成米七石余。北東に広がる荒谷あらたに山は領家りようけ(浜分村)など八村でつくる川登組の立会山で、炭を焼いていた。


角川村
つのがわむら

[現在地名]上越市四辻よつじ

つるぎ村の北にあり中江なかえ用水が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所宇津江藤右衛門扱此外拾弐方分角川村 上」とみえ、本納七八石七斗五升・縄高一九七石一斗一升七合、家九軒・二九人。正保国絵図によると高二二八石余。天和三年郷帳では高三六五石五斗余、うち漆高二斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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