言語政策と大学(読み)げんごせいさくとだいがく(その他表記)language policies and universities

大学事典 「言語政策と大学」の解説

言語政策と大学
げんごせいさくとだいがく
language policies and universities

言語政策と大学との関わりは,国ごと時代ごとに異なる。また大学が教育や研究目的にあわせて言語を採択する狭義政策に始まり,国家や国際社会の文化的・政治的な目的を言語普及のモデル教育機関として浸透させる役割まで,その幅は広い。さらに政府の言語政策を研究面で公然と支持する場合があり,他方,政策の立案者や執行者を教育・訓練する間接的な関係もある。以下では時代を追って,そうした関わりの概要を辿る。

[大学成立以前から18世紀]

古くは9世紀初頭,カール大帝カロリング小文字の採用という改革を実施し,行政レベルでのドイツ語の使用も奨励したことを指して,言語政策の開始とみなす場合がある。1200年を過ぎた頃,フランスの宮廷書記官たちが,書記言語を俗語(フランス語)へと替えたこと,さらには13世紀,カスティーリャ王アルフォンソ10世が王国の言語をイスパニア語(スペイン)語に定めたことも権力に裏付けされた言語改革といえる。他方,16世紀の言語改革を促進した「俗語賞讃論」の代表的な著者たち,たとえばイタリア語の『言語対話篇』(1542年)のスペローニ,S.(Sperone Speroni,1500-88),フランス語の『フランス語の擁護と賞讃』(1549年)デュベレー,J.(Joachim du Bellay,1522頃-1560)ネーデルラント(オランダ)語の『ネーデルラント語の尊さ』(1586年)ステフィン,S.(Simon Stevin,1548-1620)の3人はいずれも大学教育を受けている。15世紀初頭のイギリスでは,国王ヘンリー4世(在位1399-1413)およびヘンリー5世(在位1413-22)が,新王朝のランカスター朝の正統性を誇示するため,大法官府の言語として英語を課そうとした。ただし,言語社会史家ピーター・バーク,P.(Peter Burke,1937-)によれば,こうした近代以前の事例は,言語政策と言うには「対処療法」的で一貫性を欠いている。

 大学で特権的な地位を占め続けたラテン語は,16世紀に至ると中世を経て汚染され不透明化したと指摘された。「ヴィレール・コトレの王令」(1539年)は,法廷での使用言語は明瞭かつ簡潔であるべきとの立場から,ラテン語からフランス語への変更を命じ,法律分野での言語政策を画した。同年,ポルスカ(ポーランド)の王国議会(セイム)も,すべての法律をポルスカ語で印刷する決定を行った。1560年,アルプス山中のサヴォア王国のフィリベール公は,法廷と議会ではラテン語ではなくフランス語を用いるよう命じた。

 16~18世紀のヨーロッパ諸国に登場する言語アカデミーが進めた辞書や文法書の作成や「国語」の規範化は,近代的な意味での言語政策の成果であり,大学人に活躍の場を提供した。1531年,ラテン語で最初のフランス語文法を出版した医師ジャック・デュボワ,J. Jacques Dubois(Jacobus Sylvius,1478-1555)は,コレージュ・ロワイヤル(王立教授団学校)で講義を行っていた。1539年,これもラテン語で最初のマジャール語(ハンガリー)語文法を出版したヤーノシュ・シルヴェスター,J.(János Sylvester,1504頃-55頃)は,ウィーンヘブライ語,ギリシア語を教えた。1630年にカスティーリャ語綴字法の改革案を提示したゴンサロ・コレアス,G.(Gonzalo Correas,1571頃-1631)は,サラマンカ大学(スペイン)(スペイン)のギリシア語教師であった。

[19世紀以降]

厳密な意味での言語政策がはじめて行われたのは,中央政府が言語上の特定の理念を全土に徹底普及を目指したフランス革命においてであった。地方の「連邦主義や迷信」と戦うために,公安委員会のバレール,B.(Bertrand Barère,1755-1841)が1793年,言語における革命,すなわち国民が一致してフランス語を用いるという国家的言語政策を提唱した。ただし,旧体制を徹底的に否定したフランス革命下では一時的に大学が廃止され,機関として言語政策へ参画する機会は失われた。対照的に,言語学者フンボルト,K.W.von(Karl Wilhelm von Humboldt,1767-1835)の指導で1810年に設立されたベルリン大学(現,ベルリン・フンボルト大学(ドイツ))は,学問の自由を高く掲げ,グリム兄弟等の参画も得て,ドイツ語・ドイツ文化の研究と普及を強力に推進した。19世紀には多くの政府が言語計画に取り組むようになり,この世紀以降出版される文法書・辞書は一般に民族主義的政治性を持つようになる。1809年にチェコ語文法を出版したヨゼフ・ドブロフスキー,J.(Josef Dobrovský,1753-1829)はチェコの民族復興の英雄とされ,1814年にセルヴィア語文法,18年に初のセルヴィア語辞典を出版したヴク・ステファノヴィッチ・カラジッチ,V.S.(Vuk Stefanović Karadžić,1787-1864)は,セルヴィア・クロアチア文章語確立の立役者として知られるが,両者はそれぞれプラハおよびウィーンで,フンボルト前後のドイツ系大学の影響下に学んでいる。

 非西欧圏では1920年代にトルコ共和国が,初代大統領ケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Atatürk,1881-1938)の下,オスマン帝国支配の過去と絶縁して西洋文化に接近する手段として,アラビア文字を廃止し,ローマ字を採用した。中国や日本における漢字改革は,中国では清末以降の簡化運動が1954年の「漢字簡化方案」に結実し,日本では明治期以降の国語国字問題が1946年に告示された「当用漢字表」や「現代かなづかい」につながった。日本の大学は明治初期から,教育言語としてはお雇い外国人教師が打ち切られるまで,学生の学習・研究用の補助言語としては現在に至るまで,近代西欧語の使用・習得を公認してきた。その結果日本は,イスラエル等とともに国内に複数の世界水準の大学を擁しつつ,非近代西欧語を大学での教育言語とする数少ない国のひとつとなった。その言語政策は今後も世界の注目を集め続けるであろう。
著者: 原 聖

参考文献: Georg Kremnitz(ed.), Histoire sociale des langues de France, Rennes, P.U.R., 2013.

参考文献: 天野郁夫『大学の誕生(上)』中公新書,2009.

参考文献: George Thomas, Linguistic Purism, London, Longman, 1991.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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