日本の城がわかる事典 「谷村城」の解説 やむらじょう【谷村城】 山梨県都留市にあった平城(ひらじろ)。戦国時代に甲斐国(山梨県)東部の郡内(今日の都留市・大月市周辺)を領有した小山田氏の居城。小山田氏は同市金井にあった中津森館を居館として、甲斐の多くの有力国人と同様、武田信虎に敵対していたが、『勝山記』によれば、信虎が1521年(永正18)に甲斐を統一したころに和睦し、武田氏の傘下に入った。その後、信虎は川田館(甲府市)から古府中の躑躅(つつじ)ヶ崎館(同市)に居館を移したが、当主の小山田信有も1532年(享禄5)に新たな居館として築いた谷村城に移った(『勝山記』)。1530年(享禄3)に、中津森館が全焼したため、新たに谷村城を築いたともいわれる。武田氏が滅亡して、本能寺の変による織田信長の死により、甲斐が領主不在の状態になると、その領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争ったが(天正壬午の乱)、その結果、甲斐は家康の領国となった。家康は都留郡支配のため、家臣の鳥居元忠を谷村城に入城させている。その後、1590年(天正18)に豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされた後、家康は秀吉により関東への国替えを命じられ、その際に甲斐は豊臣氏の支配地となり、谷村城は豊臣氏家臣の加藤氏、浅野氏の城となったが、この間に谷村城の改築が行われ、近世の城郭として整備された。甲斐は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、再び家康の領国となるが、家康は再び、鳥居氏を入城させ、その後、江戸時代に入ると秋元氏が入封して谷村藩が成立し、谷村城に藩庁が置かれた。1704年(宝永1)、藩主の秋元喬知が川越藩(埼玉県)に移封になった際に、谷村藩は廃藩となり、同藩領の郡内地方は代官支配の天領(幕府直轄領)となった。このとき、谷村城は廃城となった。豊臣・徳川時代の谷村城の城域は、谷村第一小学校の敷地付近に本丸があり、小学校の下に二の丸が、高尾公園付近に三の丸があり、その城域は今日の都留市役所や高尾神社周辺から高尾公園にかけた一帯に広がっていた。残念ながら、その遺構はほとんど残っていない。なお、桂川をはさんだ対岸にあった戦国時代の小山田氏時代の同城の詰城が勝山城(同市)である。富士急行の谷村町駅から徒歩約3分。◇谷村館、小山田館とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報