豊岡村(読み)とよおかむら

日本歴史地名大系 「豊岡村」の解説

豊岡村
とよおかむら

[現在地名]高崎市上豊岡町かみとよおかまち中豊岡町なかとよおかまち下豊岡町しもとよおかまち北久保町きたくぼまち

北と東を東南流するからす川、南を東流する碓氷うすい川に挟まれた地域で、村の東南で両川が合流する。碓氷郡に属し、西は同郡剣崎けんざき村・八幡やわた村・藤塚ふじづか村、北は群馬郡下小塙しもこばな村・上並榎かみなみえ村、南は碓氷川を隔てて片岡かたおか乗附のつつけ村。碓氷川北岸を中山道が通り、西から上中下の豊岡村に分れていた。上豊岡に引間ひきま遺跡があり、「上毛古墳綜覧」には古墳三一基が載るが、大半は削平されてしまっている。長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には、碓氷郡の次に「豊岡郡」の名がみえ、当地との関連が考えられる。中世には「宴曲抄」正和三年(一三一四)八月の「南無飛龍権現千手千眼日本第一大霊験善光寺修行」に「夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、豊岡かけて見わたせば、ふみとゞろかす乱橋の、しどろに違(ママ)鼻、誰松井田にとまるらん」とみえる。鎌倉街道が通ったと考えられる。上杉氏上州所領目録(彦部文書)に「八幡庄之内 豊岡村半分」とあり、八幡はちまん庄に含まれていた。なお、貞治三年(一三六四)正月二三日付上杉憲顕寄進状(円覚寺文書)に「上野国八幡庄鼓岡村内池鰭禅尼給分内半分事」と記される。同所は同年正月二八日付上杉憲顕書下(同文書)、同日付長尾景忠書状(同文書)にもみえる。さらに永享一〇年(一四三八)九月六日の鎌倉府禁制(同文書)にも「上州鼓岡」とあり、前掲のように八幡庄内とあることから豊岡の呼称とみる考えもある。

慶長元年(一五九六)下豊岡常安じようあん寺を開いた禰津甚平政直(常安、松鴎軒)は、永禄一〇年(一五六七)箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)にあって「小鼻之郷」(小塙郷)三〇〇貫などを与えられている人物で(同年一一月二三日武田信玄書状写「甲斐国志」所収)、本家は信州禰津氏であった(常安寺供養碑)

豊岡村
とよおかむら

[現在地名]加茂川町豊岡上とよおかかみ豊岡下とよおかしも小森こもり高富たかとみ

井原いはら村・大木おおき村などの北にあり、旭川の支流豊岡川沿いの谷間に位置する。豊岡上村を大山往来が通る。古くは河内村と称した(備前記)。弘安一〇年(一二八七)四月一九日の関東下知状(神田孝平氏所蔵文書)にみえる長田おさだ庄雑掌と所務相論をしている式部光藤が地頭であった「鶴峯河内村」、また「蔭涼軒日録」長禄三年(一四五九)一〇月一五日条にみえる、京都東山曹源庵が地頭職を所持していた長田庄内河内村は当地にあたるか。なお、明応七年(一四九八)、文亀元年(一五〇一)などの某宛行状(備藩古文書)で、菱川神五郎らは河内村の助元名半名、国時名四分一、鹿守名名主職、あり松名四分一、軽元四分一などを宛行われている。菱川氏は松田氏、あるいは伊賀氏の武将ともいう。豊岡下の江田城や面城、小森の百坂山もうさかやま城は菱川氏一族の居城と伝える(吉備温故秘録)。当地を含む賀茂かも郷一帯には近世になっても名・苗の呼称が多く残り、村の下に平内ひらのうちといわれる地縁共同体があった。

慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)の長田庄に河内村とみえる。寛永備前国絵図にも河内村と記され、高一千三〇石余、同絵図には高の記載はないが小森村もみえる。正保郷帳でも河内村で、枝村に小森村・大師だいし村・柿山かきやま村が載る。

豊岡村
とよおかむら

面積:三九・七八平方キロ

天竜川下流域左岸に位置し、東は周智しゆうちもり町、南は袋井市・磐田市、西は浜北市、北は天竜市に接する。東西に天竜浜名湖鉄道が通る。村域には五〇ほどの遺跡が登録されているが、多くは天竜川左岸の段丘に立地し古墳群が主体である。縄文時代には新平山しんべいやま遺跡が営まれた。同遺跡は弥生時代にも集落が形成されている。敷地しきじ西之谷にしのやからは明治二三年(一八九〇)に銅鐸が二口発見され、平成一二年(二〇〇〇)には一口が発見された。西之谷に近い蔵平くらのたいら遺跡では鳥形をした弥生土器がみつかっている。古墳時代になるとまず小型の方墳大手内おおてうち一五号墳が営まれたが、五世紀には血松塚ちまつづか古墳が築造された。

豊岡村
とよおかむら

[現在地名]山本町豊岡金田とよおかきんでん

羽州街道に沿った街村。台地の西端にあり、北に金光寺きんこうじ村、南に森岳もりおか村、西に金光寺野きんこうじのがある。

慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に秋田作兵衛預りの鉄炮衆として「弐拾石 森岡村之内禰きし村之内 安保孫介」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図にも森岡の内根岸ねぎし村とあり、根岸村の位置は、金光寺村の西南、羽州街道からはずれた三種みたね川の北で、現在の根岸集落よりやや南側になる。元文五年(一七四〇)の村引越願(金岡文書)によると、根岸村は森岳村の支郷で以前から本郷の伝馬を毎月一〇日ずつ勤めていたが、羽州街道から遠いこと、不作続きで駅場御用が難渋であることを理由に享保一三年(一七二八)に街道付替願、同一六年に村居引越願を出している。

豊岡村
とよおかむら

[現在地名]中里町豊岡

岩木川右岸、岩木川デルタ沖積平野に立地し、藤枝ふじえだ溜池から発する鳥谷とりや川が村中を流れる。北東は福浦ふくうら村、南は富野とみの村、東は大沢内おおざわない村、西は田茂木たもぎ村・蘆野あしの村に接する。

金木新田一八ヵ村の一つで、明暦元年(一六五五)葛西甚兵衛の開村と伝えるが(中里町誌)、「新撰陸奥国誌」には「元禄十三年新墾」とあり、開村年代は不詳。

豊岡村
とよおかむら

[現在地名]黒石市豊岡

黒石城下東方の山形やまがた街道に沿い、東は花巻はなまき村、西は牡丹平ぼたんだいら村、南は石名坂いしなざか村に接する。山形街道は豊岡の所で坂になり、安永一〇年(一七八一)の手本山形道中記(浅瀬石川郷土誌)には「豊岡村坂の上に茶店在、爰にて暫休足し四方を詠れば、西に巌樹山、向は浅瀬石甲賀野の裸山野飼の牛馬遊ぶ風情南都春日の三笠山鹿の遊ぶに異ならず」とある。元禄四年(一六九一)の黒石御絵図(市立弘前図書館蔵)には豊岡の名はまだみえず、豊岡付近は「添新田」とある。享保一〇年(一七二五)の黒石領郷村帳(同館蔵)では豊岡村は新村として書出され、嘉永六年(一八五三)の黒石領御日記(同館蔵)にある「元文四年の村名」では石名坂村の支村とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報