小森村(読み)こもりむら

日本歴史地名大系 「小森村」の解説

小森村
こもりむら

[現在地名]津市高茶屋小森たかぢややこもり町・城山しろやま一丁目・同三丁目

小森上野こもりうえの村の南、北は天神てんじん川、南は雲出くもず用水とそれに続く月見つきみ川の入江で西部には高茶屋台地がある。台地上の古墳時代の集落遺跡から土師器・須恵器が出土する。「神鳳鈔」の一志郡に「小森御厨四貫」、同書御巫清直書写本には「内宮四石小森御厨」がみえる。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「小森村」九八八・〇二五石、「小森上野村」四九一・二七六石を記すが、文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳の一志郡には「小森」はみえず、「千四百七拾六石八斗七升 小社」があり、高からみて小森・小森上野両村にあたるかと思われる。「神鳳鈔」の同郡中には「外宮小社御厨三石塩(流布本「三石堝」は誤り)、「外宮神領目録」にも「小社御厨塩三石内 六月一石九月一石十二月一石」とあるなど、御厨名に「小社」とあるのは「小杜」の誤りと断定し、いずれも当村を中心とした御厨と考えておきたい。


小森村
こもりむら

[現在地名]両神村小森

四阿屋あずま山の南、赤平あかびら川支流小森川の流域に位置する。北はすすき村。上野国野栗のぐり(現群馬県上野村)にあった文明三年(一四七一)二月三日銘の懸仏の裏書に「大日本国知々夫国古森郷鎮守」などとあったという(武蔵史料銘記集)。「風土記稿」によれば往昔は古森と記したが、承応二年(一六五三)に薄村新小森組分が分村して当村と一村になった時から、本村を小森村、薄村からの分村分を新小森組と唱えるようになったという。しかし、寛永七年(一六三〇)の年貢割付状には小森郷、同一〇年の年貢割付状(いずれも加藤家文書)には小森村とあり、承応年中以前から小森の表記が使用されている。本村は古小森村とも称され、桜本さくらもと組・小花輪こばなわ組・山田やまだ組・原沢はらざわ組・間庭まにわ組・白沢しろざわ組・下野沢しものざわ組・上野沢組・大堤おおつつみ組の九組に分れ、高札場は小花輪組にあった(風土記稿)


小森村
こもりむら

[現在地名]西原村小森

阿蘇外輪山のたわら(一〇九四・九メートル)の西側山腹から麓の台地にかけて位置し、東は下久木野しもくぎの(現久木野村)、西は岩坂いわさか(現菊池郡大津町)、南は布田ふた村、北は鳥子とりこ村に接する。中世には阿蘇社領南郷山西やまにしのうちで、南北朝期以降阿蘇社の造営などに際し、諸役を負担している。正平七年(一三五二)二月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇家文書)によると、「裏之分 山西ヨリ布田 子守 鳥子 瀬田 葺申候」とあり、四ヵ村が寄合って一宮の屋根の裏面分の上葺を担当した。


小森村
こもりむら

[現在地名]鷹巣町小森

北流する小猿部おさるべ・小森両河川に挟まれた台地北端部に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百八拾石九斗弐升五合 小森村 宮野免村」とある。集落南側に中世後期の館跡が現存、小字名館後たてうしろたてうちが残る。文禄初年頃秋田実季の侵害にあい、慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)では「家まへハ廿五 いまハ十二」と荒廃した。同六年、小森村のうち七七石三斗は秋田実季の蔵入に指定される(「秋田実季侍分限」秋田家文書)

佐竹氏入部に際し一揆の拠点となり、慶長八年「比内郡小森村に浅利氏の残党蜂起して、頗る騒擾し民心危懼して穏かならず」(「佐竹義成君略伝」秋田沿革史大成)の状況を呈する。


小森村
こもりむら

[現在地名]滑川市小森

上市かみいち川支流のごう川沿いに位置し、北西は本江ほんごう村、南東は黒川くろかわ(現上市町)。永禄六年(一五六三)のものとみられる一二月八日の足利義輝書状(加越能古文叢)によると、典薬頭知行の「越州小森保」の公用(年貢)が前年から未納となっているため、天皇の命を受けた将軍義輝が公用確保を促す旨を関白近衛前久に報じている。当地は小森保の遺称地とみられる。地内に小森内匠高家の墓がある。「越中志徴」によると、天正一二年(一五八四)高家は前田利家に召出されて一七〇俵(のち三七〇俵となる)を拝領、その子与助吉次は魚津城の攻撃に際し一番乗りの功をあげたが、文禄元年(一五九二)に同城で死去したという。


小森村
こもりむら

[現在地名]長野市篠ノ井小森

現篠ノ井の東部、松代まつしろ道に沿う村。南は千曲川に臨み北は上中堰じようちゆうせぎ下堰しもせぎの末端がすべてここに集まり千曲川に注ぐ。明治初年の「小森村誌」(長野県町村誌)には「小森氏、戦国時代の武人。小森に居つて地名をもつて苗字とした氏人。その城址は小森村の南方にあり。本丸東西四十四間余、南北四十間余、四面は空濠で回字形をしている。南に千曲川をめぐらして乾の方に大塁あり、今も城址より古武具を出土す」と記す。小森氏の系譜は不明である。永禄四年(一五六一)川中島合戦はこの付近まで繰り広げられ、「合戦場がつせんば」の地名を残す。


小森村
こもりむら

[現在地名]結城市小森

小塙こばな町南方に位置。東を川が南流。中世には付近一帯が大桑おおくわ郷とよばれ、文明三年(一四七一)一一月の結城氏広宛行状写(東京大学史料編纂所謄写本)に「下総国結城郡為大桑郷本給平八在家五貫文地替代而、同郡峯崎坊職並田畠□□□宛行所也」、天文一七年(一五四八)七月の多賀谷政広寄進状(乗国寺文書)に「三九かために大くわ郷之内えんちやう寺ふん之内畠二たん一貫文所」とある。


小森村
こもりむら

[現在地名]鰺ヶ沢町小森町

赤石あかいし川東岸にあり、東と南は山、西の赤石川対岸は鬼袋おにふくろ村、北は同じく川を隔てて種里たねさと村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に高九五・四三石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高四三七・七石とある。同四年の検地帳に村高二二五・二七四石、うち田方二一〇・五七四石、畑方一四・七石とある。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は上とある(平山日記)。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「赤石川の東に沿て住す、土地肥腴なれとも田畑少なく、炭樵以て産を資く」とあり、家数の記載がない。


小森村
こもりむら

[現在地名]小倉南区小森

頂吉かぐめよし村の東、むらさき川支流の東谷ひがしたに川上流域に立地。元和八年人畜改帳に小森村とみえ、高二五一石余、家数三四、人数九五(うち百姓三・名子一)、牛九・馬八。郷村高帳では高三四九石余、うち新田高一六五石余。幕末の各村覚書では本高一八四石余、田七町余・畠三町七反余、物成九七石余、竈数四七・家数七一・人数一八五、牛三六・馬一二。


小森村
こもりむら

[現在地名]春江町上小森かみこもり下小森しもこもり

つじ村・大牧おおまき村の南にあり、東は西長田にしながた村。中世には敦賀の気比けひ社領であった小森保の地。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「小森村上下」として高一一一〇・九三石とみえる。正保郷帳によると、上小森村は田方五四九石余・畠方三〇石、下小森村は田方五〇一石余・畠方三〇石。


小森村
こもりむら

[現在地名]紀和町小森

平谷ひらだに村の西北、北山川左岸にある。南に枝郷和田わだがあり、北山川に面する。中世西山にしやま郷の内であり、天正一八年(一五九〇)に検地が行われた(「小森村検地帳控」天理大学図書館蔵)。新宮領で新宮北山組に属する。近世初期の家数一六(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)、後期は一七(紀州新宮領分見聞記)


小森村
こもりむら

[現在地名]十津川村大字小森

十津川筋、小原おはら村の西北にある。十津川郷のうち。寛永郷帳では「こもり」村とあり、村高九・五石、幕府領元禄郷帳では村高九・九一七石、「小原村之枝郷」と注する。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆二四〇本、檜角尺〆五〇本、椴栂松尺〆一五本、煙草二五〇貫目、割菜八八貫目、椶櫚皮五〇枚、茶八四貫目、楮九六貫目、樽丸一〇〇丸とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android