根岸村(読み)ねぎしむら

日本歴史地名大系 「根岸村」の解説

根岸村
ねぎしむら

[現在地名]仙台市長町ながまち向山むかいやま一―四丁目・越路こえじ八木山香澄町やぎやまかすみちよう八木山緑町やぎやまみどりちよう八木山松波町やぎやままつなみちよう八木山弥生町やぎやまやよいちようはぎおか若林わかばやし四丁目・根岸町ねぎしまち門前町もんぜんまち鹿野かの一―三丁目・長町一―四丁目・青山あおやま一―二丁目・鹿野本町かのほんちよう恵和町けいわまち桜木町さくらぎまち砂押町すなおしまち土手内どてうち一―三丁目・長嶺ながみね二ッ沢ふたつさわみどりおか一―四丁目・若葉町わかばまちまつおか芦の口あしのくち大塒町おおとやまち金剛沢こんごうざわ一丁目・西の平にしのだいら一―二丁目・三神峯みかみね一―二丁目・八木山東やぎやまひがし一―二丁目・泉崎いずみざき一丁目・砂押南町すなおしみなみまち八木山本町やぎやまほんちよう一―二丁目

平岡ひらおか村の北から西にかけての一帯、広瀬川右岸に立地する。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]中区根岸町一―三丁目・根岸台ねぎしだい根岸旭台ねぎしあさひだい根岸加曾台ねぎしかぞうだい池袋いけぶくろ大芝台おおしばだい大平おおひら町・柏葉かしわば鷺山さぎやま滝之上たきのうえ竹之丸たけのまる立野たての塚越つかごし寺久保てらくぼ仲尾台なかおだい西竹之丸にしたけのまる豆口台まめぐちだい簑沢みのさわ麦田むぎた町一―四丁目・矢口台やぐちだい大和やまと町一―二丁目・山元やまもと町一―五丁目、磯子いそごかみ町・馬場ばば町・坂下さかした町・しも町・はら町・西にし町・ひがし町・丸山まるやま一―二丁目

南は海、西は滝頭たきがしら(現磯子区)、北は小山を隔ててなか村、東は山を隔てて横浜村・北方きたかた村・本牧本郷ほんもくほんごう村に接する。宝徳二年(一四五〇)七月二日、宝生ほうしよう(現南区)住持円鎮は宝光庵主に対し根岸村の田一反などを寄進している(「宝生寺住持円鎮寄進状」県史三)。「風土記稿」は、宝光庵は所在不明で後年廃絶したものかとする。寛正四年(一四六三)五月九日、真照しんしよう(現磯子区)の円鎮は「平子郷根岸村三分一方百姓」藤内五郎・平子次郎の在家にかかる年貢七貫三五〇文のうち夏畠分一貫文と秋年貢六貫文を、両親の焼香分として宝生寺へ寄進し、残り三五〇文と佃公事分は真照寺へ納めると宝生寺の円真に約束している(「円鎮百姓年貢銭寄進状」県史三)


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]八戸市尻内しりうち町 根岸・ほら正法寺しようぼうじ張田はりた笹ノ沢ささのさわなど

八戸城下の西、浅水あさみず川の下流左岸の沖積低地と丘陵台地に位置する。東は河原木かわらぎ村・長苗代ながなわしろ村、西は境沢さかいざわ村・盛岡藩領七崎ならさき村、南は尻内村・根市ねいち村に接する。永禄(一五五八―七〇)の頃当村の南西の正法寺・根岸・熊沢くまのさわ名久井なくい(現三戸郡名川町)城主東政勝の所領とされていたが、元亀二年(一五七一)の戦いにより根城南部氏領に編入されたという(「南部八戸家系」南部家文書)

藩政当初は盛岡藩に属する。元和四年(一六一八)知行目録に「弐百弐拾五石六斗五升三合 春田村」とあり、根城南部氏に給されているのは張田のことか。雑書の正保二年(一六四五)五月二八日条に「八戸ニて正法寺村五郎次郎と申者之家へ下田将監内秋藤茂助と申者、今廿四日之晩忍入、茶釜一ツ・鍋壱ツ・鍬弐丁盗出候を為知合討留候由」とある。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に根岸村、高五六七・四七一石、うち田四五七・二五七石とある。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]川口市安行領根岸あんぎようりようねぎし上青木かみあおき六丁目・前川まえかわ二丁目・柳崎やなぎさき一丁目・同四―五丁目・北園町きたぞのちよう柳根町やなねちよう在家町ざいけちよう

在家村の南に位置し、北の山林台地と南の低地に立地する。南端をしば川が東流し、ほぼ中央を見沼代用水(東縁)が台地と低地を縫うように蛇行しながら東流する。戦国期はおし(現行田市)城主成田家の麾下小宮山弾正介忠孝の領地とされる(風土記稿)。田園簿では田七二七石余・畑二九二石余で、関東郡代伊奈領。承応二年(一六五三)伊奈忠治の次男忠詣が代官となったのを機に、足立郡の内で一千五〇〇石を分ち与えられたが、嗣子のないまま万治二年(一六五九)没し、知行地は幕府領となっている(寛政重修諸家譜)。当村もおそらくこのなかに含まれていたとみられ、その後寛文四年(一六六四)から元禄一六年(一七〇三)までは旗本松平氏信家が領していたと考えられる(寛政重修諸家譜・郡村誌)。国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、以後幕末まで変わらなかった(改革組合取調書など)


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]狭山市根岸

上広瀬かみひろせ村の西、入間いるま川の左岸にある。高麗こま加治かじ領に属し(風土記稿)、西は同郡篠井ささい村、南は入間川を隔てて入間郡黒須くろす(現入間市)。北方にある持添新田の北は高麗郡芦苅場あしかりば(現飯能市)馬引沢うまひきざわ村・田木たぎ(現日高市)日光脇往還がほぼ南北に通る。天正一九年(一五九一)七月大木初千代(親信)が「ねきし之内」で九八石余を、寛永二年(一六二五)九月二日鎌田源五郎(正用)が根岸村の内で一二石余を宛行われている(記録御用所本古文書)。田園簿では田九七石余・畑一三四石余、旗本西山領・大木領・鎌田領、うち西山領一二〇石余・大木領九八石余は幕末まで続く。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本二氏領、ほかに明光みようこう寺領があった。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]石巻市根岸

まき山の南麓に立地。北東は流留ながる村、南東は端郷渡波わたのはの市街、西はみなと村端郷鹿妻かづまに接する。渡波が港として、また宿場として繁栄するにしたがい、中心は渡波へ移った。渡波町に対し、根岸本郷とよばれる。「山岸ニ根石ト云名石有、是を以根岸村ト号ク」(「牡鹿状」宮城県図書館蔵)以外の地名起源説は聞かれない。公式には渡波はあくまでも端郷で、郷帳などはすべて根岸村一村に扱われる。

正保郷帳に田四一貫五一文・畑五貫二四九文、ほかに同所新田一七七文があり、旱損と注記される。「牡鹿郡万御改書上」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)には、渡波を含んで東西三町四〇間、南北二一町四〇間の広さである。渡波を含まない田三八貫四六一文・畑四貫六〇文・茶畑二七一文で、うち新田は五貫七二五文、人頭四一人、男三〇八・女一七五。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]朝霞市根岸台ねぎしだい一―八丁目・根岸・栄町さかえちよう二―四丁目・おか三丁目・田島たじま一丁目

岡村の南東にあり、だい村と村域が錯雑する。北を黒目くろめ川が屈曲しながら東へ流れ、北東で新河岸川と合流する。新河岸川には船渡、黒目川には徒渉場がある。古くは岡村・溝沼みぞぬま村と一村であったと伝え、江戸期は新座にいくら野方のがた領に属した(風土記稿)。元和三年(一六一七)五月松平孫太夫(忠政)に宛行われた「新倉郡大村郷」二〇〇石は当村にあたる(記録御用所本古文書)。田園簿に村名がみえ、田二八五石・畑一九〇石、旗本松平領(二〇〇石)・同内藤領(二五〇石)と幕府領(二五石)


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]磯子区かみ町・馬場ばば町・坂下さかした町・しも町・はら町・西にし町・ひがし町・丸山まるやま一―二丁目、中区根岸町一―三丁目・根岸台ねぎしだい根岸旭台ねぎしあさひだい根岸加曾台ねぎしかぞうだい池袋いけぶくろ大芝台おおしばだい大平おおひら町・柏葉かしわば鷺山さぎやま滝之上たきのうえ竹之丸たけのまる立野たての塚越つかごし寺久保てらくぼ仲尾台なかおだい西竹之丸にしたけのまる豆口台まめぐちだい簑沢みのさわ麦田むぎた町一―四丁目・矢口台やぐちだい大和やまと町一―二丁目・山元やまもと町一―五丁目

根岸村(中区)


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]平舘村根岸

東は陸奥湾に臨み、南は野田のだ村、西は丸屋形まるやかた(七一八メートル)を隔てて小国おぐに(現蟹田町)、北は平舘村に接する。貞享四年(一六八七)検地帳に平舘村の支村とあり、村高七六・七石、うち田方三八・九石、畑方三七・八石、下田・下々田が九割、下畑・下々畑が九割九分である。検地に際し、「根つここかい新田」から根岸と改称した。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下(平山日記)。享保一一年(一七二六)平舘村から独立した(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)。天明八年(一七八八)の「外が浜つたひ」に菅江真澄は次のように記す。

<資料は省略されています>

この村には福井姓が多く、先祖は越前福井ふくい(現福井県福井市)から来住したと伝える。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]いわき市遠野町根岸とおのまちねぎし

さめ川中流左岸の根本ねもと川に沿って集落が点在する。東は深山田みやまだ村、南は上遠野町かとおのまち村・たき村、西は大平おおだいら村、北は上根本村。菊多きくた郡に属する。慶長七年(一六〇二)岩城氏除封により幕府領となり、元和八年(一六二二)以降棚倉藩領。正保郷帳では田方六六八石余・畑方一五〇石余で、うち一〇石は上遠じようおん寺領。元禄郷帳では根岸村は高五六四石余、枝郷川端かわばた村は高一二〇石余、同小藪こやぶ村は高一五〇石余。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]藤岡市根岸

神流かんな川が東境を北流し、東は武蔵国賀美かみ肥土ひど(現埼玉県児玉郡神川村)、南は本郷ほんごう村、西から北は小林こばやし村に接する。十石じつこく街道が西部を南北に抜ける。寛文郷帳では田方一一〇石八斗余・畑方一三七石二斗余、前橋藩領。明和(一七六四―七二)以前に上里見藩(のち小幡藩)領となり同二年の領知村高書上(松浦文書)に高二六三石余とある。後期の御改革組合村高帳では旗本山川領、家数二二。中山道新町しんまち宿(現多野郡新町)の助郷を勤める藤岡町前橋藩領分の相対人馬を差出し(明和元年「増助郷免除願」星野文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御乗懸荷駄継立場に人足三〇人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]高畠町根岸

高畑たかはた村と竹森たけのもり村のほぼ中間、根岸山(三〇〇メートル)の南麓に位置。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によると、屋代やしろ庄のうち「ねきしの内、きり田七百かり」が中村源三に、高畠のうち「ねきし在家」が佐竹越中に与えられている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二九七石余、免二ツ八分、家数六(うち小走一)・人数二四。蒲生氏高目録帳では村柄は中。慶長三年(一五九八)上杉氏(のち米沢藩主)領となり、寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣三。寛文四年(一六六四)に幕府領となり、以後は安久津あくつ村と同様の変遷をたどる。元禄四年(一六九一)幕府検地があり、宝永三年(一七〇六)の新検高寄并村付(鈴木文書)によると高三一七石余、村柄は上、漆木数一五。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]嵐山町根岸

大蔵おおくら村の南東にあり、村域は都幾とき川右岸の丘陵部・台地・低地に展開する。南は将軍沢しようぐんざわ村、東は神戸ごうど(現東松山市)。古くは禰宜子とも書き、地名の由来は山の根にあたるその地形によるという(嵐山町誌)。「風土記稿」によれば当地に「熊谷次郎直実カ末孫佐渡守実勝六代ノ孫佐渡俊直」が住したとある書にあって、俊直は松山まつやま(現吉見町)城主上田朝直に属し、当村および和泉いずみ(現滑川町)を知行したという。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では禰宜子村とあり、田高一〇石余・畑高三一石余、幕府領。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]木更津市根岸

小櫃おびつ川中流域、下郡しもごおり村の西に位置する。天正年間(一五七三―九二)には根岸村一村だったが、のち上根岸村、下根岸村(現袖ケ浦市)、根岸村の三村、または上・下の根岸村になったと推測される(上根岸区有文書)。寛永二年(一六二五)知行宛行状に根岸村とみえ、村内の二三石余が旗本坂部氏に与えられているが、上・下の根岸村の可能性もある。元禄郷帳によると高一九〇石余。享保期(一七一六―三六)の絵図(上根岸区有)には日高ひたか村と記され、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳にも日高村とあり、高一六九石余、家数一七、幕府領と旗本小宮山・曾根・斎藤の三家領。天保郷帳では高一六七石余。旧高旧領取調帳では小宮山領。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]熱塩加納村加納かのう

五目ごめ村の南東、東山ひがしやま丘陵の西麓平地にある。本村(現在の下根岸集落)の北西五、六町ほどの所に端村十間館じつけんたて畠中はたけなか(併せて現在の上根岸集落)がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に根岸とみえ、高五六四石余。享保一六年(一七三一)の五目組村々書上(福島県史)によると高五〇三石余、反別は田方三八町六反余・畑方六町二反余、家数・人数は本村二一軒・八四人、十間館一七軒・八三人、中畑(畠中)五軒・二五人、馬一九を飼育し、漆木役七三八本七分・山役金一両一分・同銀二匁二分二厘を負担していた。「新編会津風土記」によれば家数は本村一五・十間館一〇・畠中四。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]町田市根岸町・忠生ただお

木曾きそ村の北西にある。もと木曾村のうちで、延享二年(一七四五)に分村したというが、未詳。檜山守屋家墓地に寛正二年(一四六一)一〇月蓮金・妙秀と銘のある一対の逆修宝篋印塔、同六年八月二三日浄本と銘のある供養五輪塔、文明五年(一四七三)五月五日妙金と銘のある供養五輪塔などの石造遺物がある。ほかに応安元年(一三六八)八月二三日銘など良好な状態の板碑が一九基あり、応永六年(一三九九)一一月二五日銘の阿弥陀種子板碑は梵字光明真言が刻されている。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]浅川町根岸・中根なかね

阿武隈高地の西縁、低丘陵地に囲まれ、北東部を北西流する殿との川沿いの平坦地に位置する。西は袖山そでやま村。貞治三年(一三六四)四月二五日の結城朝常譲状(結城文書)高野たかの郡のうちとして「ねきし」とあり、朝常から子政常に譲られている。天正一八年(一五九〇)正月二一日の佐竹義宣証状(浅川史)によると、当地は赤坂下総守の本領であった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一九七石余。


根岸村
ねぎしむら

[現在地名]浦和市根岸一―五丁目・神明しんめい一―二丁目・南本町みなみほんちよう二丁目・つじ二丁目

文蔵ぶぞう村の西に位置する。大宮台地の浦和支台先端の舌状台地と沖積低地からなる。中山道が通り、台地を上る所に焼米を売る店があり、この坂を焼米やきごめ(浦和坂)と称した(江戸名所図会)。田園簿では田二六八石余・畑一六五石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳、幕末の改革組合取調書はいずれも幕府領。検地は元和九年(一六二三)と元禄三年(一六九〇)実施を伝え、安永八年(一七七九)には新田検地が行われたという(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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