豊竹呂昇(読み)トヨタケロショウ

デジタル大辞泉 「豊竹呂昇」の意味・読み・例文・類語

とよたけ‐ろしょう【豊竹呂昇】

[1874~1930]義太夫節女太夫。愛知の生まれ。本名、永田仲美声と美貌、巧みなばちさばきで一世を風靡した。

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精選版 日本国語大辞典 「豊竹呂昇」の意味・読み・例文・類語

とよたけ‐ろしょう【豊竹呂昇】

  1. 義太夫節の女太夫。本名永田仲。名古屋出身。大阪に出て初世豊竹呂太夫に入門し、女義太夫黄金時代を築く。明治三一年(一八九八)東京に進出つやのある声と巧みな三味線の弾き語りで人気を得た。明治七~昭和五年(一八七四‐一九三〇

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「豊竹呂昇」の解説

豊竹 呂昇
トヨタケ ロショウ


職業
女義太夫節太夫

本名
永田 仲

別名
初名=竹本 仲路

生年月日
明治7年 8月4日

出生地
愛知県 名古屋市

経歴
11歳の時、父親と死別したことがひとつの岐点となり義太夫の道へ進んだ。叔父のすすめで、当時名古屋の義太夫語りの第一人者竹本浪越太夫に弟子入り、仲路と名乗る。明治25年大阪に出て2代目豊竹呂太夫に師事し、豊竹呂昇を名乗る。大阪の席亭播重、万亭などに出演、女義太夫のトップスターとして一世を風靡した。31年東京にも進出し、41年以降毎年2回有楽座の名人会に出演して竹本摂津大掾と並ぶほどの人気を得た。つやのある美声で、しとやかさ、気品の高さに定評があった。大正13年引退

没年月日
昭和5年 6月7日 (1930年)

伝記
新編 近代美人伝〈上〉泣きどころ人物誌 長谷川 時雨 著,杉本 苑子 編戸板 康二 著(発行元 岩波書店文芸春秋 ’93’87発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「豊竹呂昇」の意味・わかりやすい解説

豊竹呂昇 (とよたけろしょう)
生没年:1874-1930(明治7-昭和5)

女義太夫。名古屋の生れ。本名永田仲。父親の没後,浄瑠璃好きの叔父に養育されて5世竹本土佐太夫につく。叔父は七福座という寄席を経営していたので,16歳のとき仲路の名で出演。1892年名古屋を訪れた初世豊竹呂太夫に入門して大阪へ移る。やがて高津清津橋の播重(はりじゆう)席へ出勤し,大阪における女義太夫の全盛期をつくり上げた。96年に播重から離れ,末虎,愛之助ら約10人と〈都保美連(つぼみれん)〉を結成。曾根崎橋の万亭を定席にしたが,焼失後は各地の劇場へ出演する。99年9月に東京茅場町の宮松亭へ出勤,実力は認められたが人気はいま一つであった。ところが1908年以降,有楽座の名人会では圧倒的な人気を博し,女義太夫界の頂点に立った。24年に引退,30年6月7日没。つやのある美声で,《酒屋》《鳴門》《先代萩》《朝顔》などを得意とした。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「豊竹呂昇」の解説

豊竹 呂昇
トヨタケ ロショウ

明治・大正期の女義太夫節太夫



生年
明治7年8月4日(1874年)

没年
昭和5(1930)年6月7日

出生地
愛知県名古屋市

本名
永田 仲

別名
初名=竹本 仲路

経歴
11歳の時、父親と死別したことがひとつの岐点となり義太夫の道へ進んだ。叔父のすすめで、当時名古屋の義太夫語りの第一人者竹本浪越太夫に弟子入り、仲路と名のる。明治25年大阪に出て2代目豊竹呂太夫に師事し、豊竹呂昇を名のる。大阪の席亭播重、万亭などに出演、女義太夫のトップスターとして一世を風靡した。31年東京にも進出し、41年以降毎年2回有楽座の名人会に出演して竹本摂津大掾と並ぶほどの人気を得た。つやのある美声で、しとやかさ、気品の高さに定評があった。大正13年引退。

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朝日日本歴史人物事典 「豊竹呂昇」の解説

豊竹呂昇

没年:昭和5.6.7(1930)
生年:明治7.8.4(1874)
明治大正期に活躍した女義太夫の太夫。本名永田仲。父は為吉,母は勇子。名古屋生まれ。小学生のころ常磐津を習い,13歳ごろ竹本浪越太夫(5代目竹本土佐太夫)につき義太夫を始め,仲路と名乗り竹本小土佐の一座に加わる。17歳で結婚するが離別。明治25(1892)年初代豊竹呂太夫に入門し,大阪に出て修業を積み,呂昇と改名。大阪の寄席を本拠として華やかな美貌と美声で人気を得,各地で興行する。31年,38年と2度上京したあと,40年より東京の有楽座において,毎年2回の名人会に出演。学者,文化人,政財界人と交流を深め,寄席芸であった女義太夫の格を向上させた。文楽の名人竹本摂津大掾 に並ぶ人気を博したが,大正13(1924)年引退。<参考文献>西村九郎右衛門編『呂昇』

(田中悠美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊竹呂昇」の意味・わかりやすい解説

豊竹呂昇
とよたけろしょう
(1874―1930)

女義太夫(おんなぎだゆう)の太夫。本名永田仲(なか)。名古屋生まれ。初め仲路(なかじ)の名で寄席(よせ)に出ていたが、1892年(明治25)大阪に出て初世豊竹呂太夫(ろだゆう)に入門、呂昇の名をもらう。女義(にょぎ)の檜(ひのき)舞台である播重(はりじゅう)席で活躍したが、南地(なんち)の名人会に出たことから97年播重席を退き、女義の向上をうたって都保美連(つぼみれん)を結成。1908年(明治41)東京・有楽座の開場興行に出演。以後、毎年春秋同劇場の名人会に東上、つねに大入りだった。美貌(びぼう)と美声にして達者な義太夫は一世を風靡(ふうび)した。24年(大正13)引退。

[土岐迪子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊竹呂昇」の意味・わかりやすい解説

豊竹呂昇
とよたけろしょう

[生]1874.8.4. 名古屋
[没]1930.6.7. 大阪
娘義太夫の太夫。本名永田仲。最初,名古屋の竹本浪越太夫に入門。仲治と名のる。 1892年大阪に出て1世豊竹呂太夫に入門,呂昇と改名。つやのある美声で人気を博し,播重 (はりじゅう) という席亭などを舞台に大阪の娘義太夫の全盛期を招来した。 1898年以来しばしば上京,新富座,東京座,有楽座などに出演。娘義太夫を寄席芸から劇場芸へと引き上げた。 1923年,高血圧のため引退。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊竹呂昇」の解説

豊竹呂昇 とよたけ-ろしょう

1874-1930 明治-大正時代の女義太夫の太夫。
明治7年8月4日生まれ。名古屋の竹本浪越太夫(なみこしだゆう),大阪の初代豊竹呂太夫にまなび,大阪の播重(はりじゅう)席や万亭で活躍。明治41年から東京の有楽座で毎年2回の名人会に出演。大正13年引退。美声と達者な三味線による弾き語りで人気をえた。昭和5年6月7日死去。57歳。愛知県出身。本名は永田仲。初名は竹本仲路(なかじ)。

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百科事典マイペディア 「豊竹呂昇」の意味・わかりやすい解説

豊竹呂昇【とよたけろしょう】

義太夫節演奏家。大正期の女義太夫の名人。ひき語り。本名永田仲。尾張藩士の娘。大阪で義太夫節を学び,女義太夫として名声を得た。東京における呂昇を中心とした〈東西名人会〉は有名。ラジオ放送出演を生涯拒否した。

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367日誕生日大事典 「豊竹呂昇」の解説

豊竹 呂昇 (とよたけ ろしょう)

生年月日:1874年8月4日
明治時代;大正時代の女義太夫
1930年没

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