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「竹本摂津大掾」の意味・読み・例文・類語
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たけもと‐せっつだいじょう【竹本摂津大掾】
- 義太夫節の太夫。大坂の人。初名南部太夫。万延元年(一八六〇)二世越路太夫となる。明治一六年(一八八三)文楽座櫓下(紋下)となり、同三六年、六世春太夫襲名、同年摂津大掾受領。大正二年(一九一三)引退。天保七~大正六年(一八三六‐一九一七)
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竹本 摂津大掾
タケモト セッツノダイジョウ
- 職業
- 義太夫節太夫(文楽)
- 専門
- 人形浄瑠璃
- 本名
- 二見 亀次郎
- 別名
- 幼名=吉太郎,通称=金助,前名=竹本 南部太夫,竹本 越路太夫(2代目)(タケモト コシジダユウ),竹本 春太夫(6代目)(タケモト ハルタユウ)
- 生年月日
- 天保7年 3月15日
- 出生地
- 大坂・順慶町(大阪府)
- 経歴
- 大阪の塗物問屋の子に生まれ、二見伊八の養子となる。竹沢竜之助に三味線を習い、のちに3代目鶴沢清七らに師事。安政5年5代目春太夫の門に入って太夫に転じ竹本南部太夫を名乗る。万延元年2代目越路太夫を襲名。慶応元年に文楽座で初舞台。明治10年から名人2代目豊沢団平を相三味線に人気は高まり、16年文楽座の櫓下となる。彦六座に対抗して5代豊沢広助、初代吉田玉造とともに三人紋下として文楽座を支え、人形浄瑠璃の黄金期を築いた。36年1月6代目春太夫を名乗ったが、5月小松宮殿下から摂津大掾の名を賜り「妹背山」「本朝廿四孝」「先代萩」などを語って75日間大入りとなった。大正2年「楠昔噺」を最後に引退した。美声と品格に恵まれた明治浄瑠璃界の第一人者。
- 没年月日
- 大正6年 10月9日 (1917年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
竹本 摂津大掾
タケモト セッツノダイジョウ
江戸時代末期・明治期の義太夫節太夫(文楽)
- 生年
- 天保7年3月15日(1836年)
- 没年
- 大正6(1917)年10月9日
- 出生地
- 大坂・順慶町
- 本名
- 二見 亀次郎
- 別名
- 幼名=吉太郎,通称=金助,前名=竹本 南部太夫,竹本 越路太夫(2代目)(タケモト コシジダユウ),竹本 春太夫(6代目)(タケモト ハルタユウ)
- 経歴
- 大阪の塗物問屋の子に生まれ、二見伊八の養子となる。竹沢竜之助に三味線を習い、のちに3代目鶴沢清七らに師事。安政5年5代目春太夫の門に入って太夫に転じ竹本南部太夫を名のる。万延元年2代目越路太夫を襲名。慶応元年に文楽座で初舞台。明治10年から名人2代目豊沢団平を相三味線に人気は高まり、16年文楽座の櫓下となる。彦六座に対抗して5代豊沢広助、初代吉田玉造とともに三人紋下として文楽座を支え、人形浄瑠璃の黄金期を築いた。36年1月6代目春太夫を名乗ったが、5月小松宮殿下から摂津大掾の名を賜り「妹背山」「本朝廿四孝」「先代萩」などを語って75日間大入りとなった。大正2年「楠昔噺」を最後に引退した。美声と品格に恵まれた明治浄瑠璃界の第一人者。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
竹本摂津大掾 (たけもとせっつのだいじょう)
生没年:1836-1917(天保7-大正6)
義太夫節の太夫。本名二見金助。大坂順慶町に生まれる。初名吉太郎。5歳のとき大工の棟梁二見伊八の養子となり,亀次郎と名乗る。11歳から3世鶴沢清七について三味線を習い,1858年(安政5),5世竹本春太夫に入門して竹本南部太夫となる。60年(万延1)には3世野沢吉兵衛と江戸へ下り,2世竹本越路太夫を相続。3年後に大坂へ戻って文楽座へ出演し,たちまち頭角を現して,83年に櫓下(やぐらした)となる。1903年1月に6世竹本春太夫を襲名,5月に摂津大掾を受領。美声で《先代萩(せんだいはぎ)》《十種香》《中将姫》などの艶物を得意とした。13年引退。明治時代の名人で,義太夫節の普及に大きく貢献した。
執筆者:倉田 喜弘
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竹本摂津大掾
たけもとせっつだいじょう
[生]天保7(1836).3.15. 大坂
[没]1917.10.9. 兵庫
義太夫節の太夫。本名二見金助。初名南部太夫。万延1 (1860) 年2世竹本越路太夫を襲名。3世野沢吉兵衛,5世竹本春太夫,2世豊沢団平らの薫陶を受け,1883年文楽座紋下 (総座頭) に就任。 1903年春太夫を襲名後,摂津大掾を受領。 13年引退。明治期文楽を代表する名人。美声の持主で,対抗者の3世竹本大隅太夫の写実主義に対し,耽美的な芸風をもち,晩年は気品高い,深みのある芸域に達した。代表曲は『十種香』『先代萩』『忠臣蔵』 (7段目) など。
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竹本摂津大掾 たけもと-せっつのだいじょう
1836-1917 幕末-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)7年3月15日生まれ。義太夫節。3代野沢吉兵衛に三味線をならい,5代竹本春太夫に入門,初名は南部太夫。2代竹本越路太夫(こしじだゆう)をつぎ江戸で人気をえる。大坂にもどり,明治16年文楽座の櫓下(やぐらした)。36年6代春太夫を襲名し,摂津大掾を受領(ずりょう)した。3代竹本大隅太夫(おおすみだゆう)とともに明治義太夫界の双璧(そうへき)といわれた。大正6年10月9日死去。82歳。大坂出身。本名は二見金助。
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「竹本摂津大掾」の意味・わかりやすい解説
竹本摂津大掾【たけもとせっつだいじょう】
義太夫節演奏家。大坂の塗物問屋に生まれる。11歳から浄瑠璃を始め,三味線ひきを志したが,その美声を認められ,太夫となった。すぐれた才能と品位ある端正な演奏態度により,明治期における名人として有名。
→関連項目竹本大隅太夫|豊沢団平
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世界大百科事典(旧版)内の竹本摂津大掾の言及
【浄瑠璃素人講釈】より
…政界の黒幕と目された杉山茂丸は義太夫節を熱愛した。竹本摂津大掾,3世竹本大隅太夫,絃阿弥から聞いた話をもとに,義太夫芸の伝承,とくに〈風(ふう)〉の追求を通じ,古典芸術としての地位を確立せしめようとした。全部で84段の浄瑠璃ごとに,風にふれつつ,逸話や実際の語り方を述べるうちに,義太夫の芸の本質を明らかにした。…
【艶物】より
…したがって美音の太夫が優艶に感情をこめて語ることになる。[竹本摂津大掾]などこうした場面を語るのを得意とする太夫を艶物語り,艶語りと称する。また,三味線も優しくきれいな音色で弾くことが要求される。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」