貝島太助(読み)かいじま・たすけ

朝日日本歴史人物事典 「貝島太助」の解説

貝島太助

没年:大正5.11.1(1916)
生年:弘化2.1.11(1845.2.17)
明治時代の実業家。貝島炭礦創業者。筑前国鞍手郡直方(直方市)の貧農貝島永四郎と種子の長男。8歳から坑夫となり,20歳で伊乃子(のち慶子)と結婚,夫婦で行商。明治3(1870)年から炭鉱業に従事西南戦争による炭価の暴騰巨利を博し,炭鉱業者の帆足義方のため12年に香月炭坑を開削(のちに買収)するが,18年4月独立。鞍手郡宮田村大字上大隈字大乃浦に4万6000坪を借区,10インチ巻揚機などを使い立(竪)坑開削を始め,弟3人と坑夫,火夫,揚水夫を兼ねた苦闘の末,深さ37.9mのところで90cm(3尺)層に着炭した。しかし20年,次弟文兵衛を39歳で失ってもいる。21年菅牟田坑4万3600坪を買収,26年桐野斜坑を開削,以上3坑を大之浦坑と総称。22年3月資本金5万円で栄鉱社を設立するが,23年不況と高利負債に苦しむ。24年井上馨知遇を得たため,鉱区三井物産名義を代償借金,大之浦炭の販売権を譲渡し栄鉱社も解散するが,負債を完済,鉱区も取り戻して,31年貝島鉱業合名会社を資本金200万円で設立(1931年貝島炭礦株式会社となる),36年鉱区922万坪,年産60万トンの筑豊一の炭鉱王となる。坑夫あがりの温情主義を貫いた太助も,井上の「侠気」から42年10月貝島家憲制定により行動を制約され,三井から販売権を取り戻すのは,死後の大正8(1919)年であった。<参考文献>九大石炭研究資料センター編『石炭研究資料叢書』10輯,森川英正『地方財閥』

(小林正彬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「貝島太助」の意味・わかりやすい解説

貝島太助
かいじまたすけ
(1844―1916)

明治・大正期の炭鉱企業家。筑前(ちくぜん)(福岡県)直方(のおがた)に生まれる。幼名留吉。坑夫より身をおこし、やがて棟領として頭角を現す。その後、炭鉱経営に着手。激しい浮沈を重ね、巨額の債務に苦しんだが、井上馨(かおる)の知遇を得、その援助の下に辣腕(らつわん)を振るい、筑豊第一の土着鉱業家に成長した立志伝中の人物。大之浦、菅牟田(すがむた)、大辻(おおつじ)などの有力炭鉱を次々と入手。事業の拡大に伴い1898年(明治31)貝島鉱業合名会社を設立した(1909年株式会社に改組)。筑豊御三家と称され、また炭鉱王ともいわれたが、三井物産に久しく一手販売権を掌握されていた。その解消は、太助の死後1920年(大正9)のことであった。

[畠山秀樹]

『高橋光威著『貝島太助翁の成功談 炭鉱王』(1903・博文館)』『大辻炭鉱株式会社編・刊『大辻炭鉱七十年史(稿本)』(1954)』『『貝島家文書』(九州大学所蔵)』


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「貝島太助」の解説

貝島太助 かいじま-たすけ

1844-1916 明治-大正時代の実業家。
天保(てんぽう)15年1月11日生まれ。明治3年炭鉱事業に従事。西南戦争で巨利をえて17年大之浦炭鉱を入手。のち井上馨(かおる)の援助を得,日清(にっしん)戦争を契機に事業をひろげ31年貝島鉱業合名を設立,貝島炭鉱の基礎をきずいた。大正5年11月1日死去。73歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。

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