福岡県北部にある鉱工業都市。1931年(昭和6)市制施行。1955年(昭和30)植木(うえき)町を編入。遠賀川(おんががわ)中流の直方平野に位置し、東西は古第三紀層の小丘陵が広く分布、彦山(ひこさん)、犬鳴(いぬなき)の両遠賀川支流が合流する中央部には沖積低地が開ける。遠賀川沿いにJR筑豊本線(ちくほうほんせん)(福北ゆたか線)が国道200号と並走して、平成筑豊鉄道伊田線(へいせいちくほうてつどういたせん)を分岐。筑豊電気鉄道も通じる。この地は古く、所在の寺名をとって東蓮寺(とうれんじ)とよばれていた。1623年(元和9)福岡藩主黒田長政(ながまさ)の四男黒田高政が父の遺領4万石を分与されて東蓮寺藩をたてた。陣屋を中心に町も広がったが、1675年(延宝3)寺名を避け付近の村名をとって地名(藩名)を直方と改めた。その後1720年(享保5)直方藩は廃され、藩領は宗藩に合併されたが、遠賀水運の物資集散地として存続した。明治中期、炭田開発により炭鉱が次々に開鉱して発展を始め、1890年代の鉄道開通後は筑豊炭の鉄道輸送基地として、また炭鉱機械、器具製造工業の町としても筑豊炭田の中心都市となった。1955年(昭和30)以降、石炭合理化により炭鉱は次々に閉山、市経済は大きな打撃を受けた。現在は産炭地振興で工業団地を造成して企業を誘致、一般的金属・機械工業都市にかわり、北九州市への通勤者も多い。見どころとして多賀公園、鴨生田(かもおだ)公園、水町遺跡公園、多賀神社、西徳(さいとく)寺などがあり、多賀神社南の石炭記念館は筑豊の歴史を伝えている。東部の福智山地一帯は北九州国定公園に含まれ、鷹取(たかとり)山には城跡がある。面積61.76平方キロメートル(境界一部未定)、人口5万6212(2020)。
[石黒正紀]
『『直方市史』全4巻(1971~1983・直方市)』
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
福岡県北部の市。1931年市制。人口5万7686(2010)。遠賀(おんが)川中流に彦山川,犬鳴(いぬなき)川が合する交通の要地で,古第三紀層の低い丘陵が広く分布する。JR筑豊本線から平成筑豊鉄道伊田線を分岐し,筑豊電鉄の終点でもある。1623年(元和9)福岡藩の支藩として東蓮寺藩4万石(のち直方藩5万石)がおかれて城下町が発達し,74年(延宝2)直方と改称。1720年(享保5)藩主の本家相続で廃藩となったが,その後遠賀川水運の物資集散地としてにぎわいを取り戻した。1890年代の筑豊興業鉄道(現,筑豊本線),伊田線開通後は筑豊炭の輸送基地となり,また炭鉱機器製造の鉄工業や卸小売業が発達し,筑豊炭田の中心都市となった。しかし石炭合理化政策の影響を受け,市内17炭鉱は1966年までにすべて閉山し,鉄工業も一般向けの製品生産に転換,人口も減少した。近年は産炭地域振興のため造成した中泉・明神池両工業団地を中心に電気機器,金属,機械その他約60企業が立地して内陸工業地域に変貌し,また北九州市への通勤圏として住宅地化も進み,70年代から80年代にかけて人口も増加した。北九州国定公園に含まれる景勝の福智山(901m),1046年(永承1)に築かれた山城の鷹取(たかとり)城跡,尺岳の竜王峡などがあり,石炭記念館や鷹取山山麓の永満寺,および頓野内ヶ磯の高取焼窯跡がある。直方駅裏の多賀神社の祭礼には,江戸初期に大坂から伝わった《思案橋》をもとにしたという手踊の日若踊が奉納される。
執筆者:土井 仙吉
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…筑豊本線から平成筑豊鉄道伊田線を分岐し,筑豊電鉄の終点でもある。1623年(元和9)福岡藩の支藩として東蓮寺藩4万石(のち直方藩5万石)がおかれて城下町が発達し,74年(延宝2)直方と改称。1720年(享保5)藩主の本家相続で廃藩となったが,その後遠賀川水運の物資集散地としてにぎわいを取り戻した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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