貴志 康一(読み)キシ コウイチ

新撰 芸能人物事典 明治~平成の解説

貴志 康一
キシ コウイチ


職業
指揮者 作曲家 バイオリニスト

別名
別名=ナギサ ヤスカズ

生年月日
明治42年 3月31日

出生地
大阪府 大阪市北区桜ノ宮(都島区東野田)

学歴
甲南高高等科〔大正15年〕中退 ジュネーブ音楽院〔昭和3年〕卒

経歴
祖父は和歌山出身の士族で、明治維新後に大阪に出て生地問屋を営み、財を成した。そのため家は裕福で、少年時代は子どもたちのために建てられた芦屋の別宅で過ごした。早くから音楽や芸術を好み、11歳の時に世界的なバイオリニストであるミッシャ・エルマンの来日公演を聴いて感激し、母の師でもあった大橋順二郎にバイオリンを習い始める。さらに神戸在住のロシア人バイオリニスト・ウェックスラーに師事。また、宝塚交響楽団の常任指揮者ヨゼフ・ラスカから音楽理論を学んだ。大正14年大阪三木楽器店ホールで初のリサイタルを開催。その後、スイス人時計商シュルツの勧めにより、15年甲南高校を2年で中退してジュネーブ音楽院に留学。同院ではプルミエ・プリを受けるとともに同地の管弦楽団で3度独奏会を開くなど目覚ましい成績を残し、昭和3年首席で卒業。いったん帰国し、レオ・シロタの伴奏を得て京都・大阪・神戸でリサイタルを開催したが、同年にベルリン留学してカール・フレッシュの指導を受けた。4年休暇を利用して一時帰国した際には、当時の金額で6万円もするという名器ストラディバリウスを携えており、近衛秀麿の伴奏で放送出演やリサイタルを行って話題となった。この頃から作曲や指揮に興味が移り、5年よりヴィルヘルム・フルトヴェングラーに指揮を学ぶ。またパウル・ヒンデミットについて本格的に作曲活動を開始し、ベルリンのビルンバッハ社から日本人初の作品出版となった「七つの日本歌曲」をはじめ、短期間で交響曲「仏陀」、交響組曲「日本組曲」「日本スケッチ」、「バイオリン協奏曲」、バイオリン独奏曲「竹取物語」、ピアノ伴奏による歌曲「八重桜」を作曲するなど、日本人に期待されていたエキゾチシズムを見事に表現するとともに、豊かな旋律に和声と複雑なリズムを駆使した巧みな作風で充実した仕事ぶりを見せた。9年自身の指揮、ウーファ交響楽団の演奏によって行った自作発表会「貴志康一による日本の夕べ」が好評を博し、同年にはベルリン・フィルを指揮してドビュッシーやリヒャルト・シュトラウスといった巨匠の作品と並び自作の交響曲「仏陀」を演奏するという栄誉に浴した。10年に帰国してからは近衛秀麿が退団したあとの新交響楽団(NHK交響楽団)などでタクトを振るい、特に11年2月の同団第164回定期公演におけるベートーヴェンの「第9交響曲」演奏は諸井三郎から“現在の日本で聞き得られる殆ど最高の「第9」演奏”とまで絶賛された。しかし、同年初来日のヴィルヘルム・ケンプと共演した同団第166回定期公演を最後に病を得、12年その才能を惜しまれながら28歳で急逝した。他の作品にバイオリン独奏曲「月」「花見」「竜」、歌曲に「富士山」や自身の作詞による「つばくら」「かもめ」「花売娘」などがある。近年再評価が進み、53年母校の甲南高校に記念室が設けられた。また、作品は指揮者・小松一彦らの尽力により国内やロシアで初演され、ベルリン時代の自作自演曲集CD「貴志康一 ベルリン・フィル―幻の自作自演集」も発売されている。平成21年は生誕100周年にあたり、記念演奏会が各地で開催される。

受賞
上方芸能人顕彰(平10年度)

没年月日
昭和12年 11月17日 (1937年)

伝記
戦中の「マタイ受難曲」―成城学園・ヒューマニズムの光彩貴志康一 永遠の青年音楽家日本人の足跡〈3〉世紀を超えた「絆」求めて貴志康一―よみがえる夭折の天才それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情 柴田 巌 著毛利 眞人 著産経新聞「日本人の足跡」取材班 著日下 徳一 著飛鳥 寛栗 著(発行元 みやび出版,創英社 三省堂書店〔発売〕国書刊行会産経新聞ニュースサービス,扶桑社〔発売〕音楽之友社樹心社,星雲社〔発売〕 ’09’06’02’01’99発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

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