中国,南宋末の宰相。字は師憲,号は秋壑(しゆうがく)。台州(浙江省臨海県)の人。祖父の賈偉は科挙に合格して進士。父の賈渉はその恩蔭によって官に就き,理宗のとき淮東制置副使になった。賈似道も父の陰で官に就いたが,異母姉が貴妃となって理宗に寵愛され,皇后にもなろうかという勢いであったため,理宗との間に私的な信頼関係ができて昇進を重ね,1245年(淳祐5)に京湖制置使,49年に京湖安撫制置大使,56年(宝祐4)に参知政事(副宰相),57年知枢密院事,58年両淮宣撫大使となり,国境地帯の最高軍事権を掌握した。
59年(開慶1)南宋討滅のモンゴル軍は,憲宗モンケ・ハーンの急死で作戦を中止したが,撤退するモンゴル軍の最後尾を鄂州(がくしゆう)(湖北省武漢市武昌)で渡河中に攻撃した宋軍は若干の戦果をあげた。これが朝廷に誇大に伝えられ,指揮官の賈似道は理宗の絶大な信頼を得て,60年(景定1)に臨安に凱旋するとただちに宰相に任命された。以後16年間軍閥や官僚,太学生などの勢力を籠絡する一方,軍糧確保のための公田法を施行するなど,財政再建に尽力し,南宋末期の宰相として絶大な権力をふるった。やがて杭州西湖の北畔葛嶺に私邸を賜り,みずから半閑老人と号したが,朝廷の政治はすべてこの私邸で決裁されるありさまであった。75年(徳祐1),モンゴルが再来し,丁家洲(安徽省蕪湖県)で宋軍は敗れた。遷都の建議も聞かれず,罪を得て配所の漳州(福建省竜渓県)で殺された。美術品の鑑賞・収集でも有名。
執筆者:衣川 強
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中国、南宋(なんそう)の宰相。字(あざな)は師憲(しけん)。浙江(せっこう)省台州の人。南宋の寧宗朝に制置使として淮南(わいなん)の防衛に活躍した賈渉(かしょう)の子。姉が理宗の貴妃(きひ)となったことから中央官僚に抜擢(ばってき)され、以後1259年に丞相(じょうしょう)、67年に平章軍国重事となり、文字どおり国家最高の実力者として権勢を振るった。いわゆる進士官僚による政治の独占と彼らの間での派閥抗争の激化が、かえってその規定のコースから外れた彼への皇帝の異常な信頼となり、その委託を受けて困難なモンゴルとの外交交渉にあたる一方、もはや救いようのない国内の幣制や土地問題の解決に大胆な改革を断行した。しかし、結果は裏目に出て、成果があがらぬままに南宋は瓦解(がかい)し、彼もまた亡国の責任を一身に負う形で福建省漳州(しょうしゅう)の木綿庵(もくめんあん)に落とされ、途上、監送人の手によって殺された。
[山内正博]
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1213~75
南宋末期の宰相。宋朝の姻戚。台州(浙江(せっこう)省臨海市)の人。クビライの侵攻を防いだ功で宰相となり,理宗,度宗(たくそう),恭帝の3代16年間政権を握り,公田法などの財政再建策を行った。古書画の鑑賞,収集でも名高い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…さらに会子とよぶ紙幣を乱発して物価騰貴を招き,経済界を混乱させた。そこで賈似道(かじどう)は公田法を施行(1263)して大地主の土地を買い上げることにし,ある程度の成果を挙げた。しかし国力を挽回するまでにはいたらず,元の世祖フビライの攻撃をうけて,1276年に臨安が陥落,恭帝は元の軍門に下った。…
※「賈似道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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