赤瀬村(読み)あかぜむら

日本歴史地名大系 「赤瀬村」の解説

赤瀬村
あかぜむら

[現在地名]大田原市赤瀬

南流する蛇尾さび川左岸丘陵崖下に集落がある。北は大和久おおわぐ村、西は宇田川うだかわ村、東は鹿畑かばた村。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された本領のうちに「大わく、あかせ、松嶋上下」がみえ、六二五石三斗とある(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領、幕末は旗本久世領(旧高旧領取調帳)大田原宿定助郷を勤め、文化元年(一八〇四)頃の助郷高三〇石。また奥州街道の清掃の人夫出役をした(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)。慶応三年(一八六七)蛇尾川右岸宇田川村との間に秣場をめぐる争論が起きた。


赤瀬村
あかぜむら

[現在地名]宇土市赤瀬あかせ

東は下網田しもおうだ村、西・南はなか(現宇土郡三角町)に接し、北は島原湾に面している。東・西・南は高く北は高低のある地形。村の中央に堂前どうのまえ、東に津吹つぶき南東古屋敷ふるやしき、南に茶園ちやえん南西小谷こだになどの字地がある(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「赤瀬」とみえ、郡浦こおのうら庄に属した。近世は郡浦手永に属し、「国誌」に「平岩村古屋敷村等ノ小村アリ」とある。


赤瀬村
あかぜむら

[現在地名]榛原町大字赤瀬

香酔こうずい峠に発源する天満てんま川流域の山村。「宇陀郡邑名起原考」には「此地往古山辺の属邑にして西山辺と称せし地なり、邑を貫通する香瑞川のせゝらぎ常に赤色を帯べるをもつて自ら赤瀬となす。此地香瑞山の中腹にヘソの水と称する霊水噴出す。これ香瑞川の源にして、旱天此所に於て雨を祈れば験ありと云ふ」と記す。「臍の水」は現存し、雨乞に効果があるとされ、傍ら竜神が祀られ、水神すいじんさんとよばれる。


赤瀬村
あかぜむら

[現在地名]小松市赤瀬町

大杉谷おおすぎだに川左岸の山間部にあり、大杉谷川は村内で大きく屈曲して北流し、大川とよばれている。北は打木うつぎ村・上り江あがりえ村。正保郷帳では高一九三石余、田方五町四反余・畑方五町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では「奥遠山二十五ケ村之内」とあり、高二一〇石、免五ツ二分八厘、小物成は山役三八一匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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