日本歴史地名大系 「赤羽村」の解説 赤羽村あかばねむら 栃木県:芳賀郡市貝町赤羽村[現在地名]市貝町赤羽田多羅(たたら)村の西に位置し、北は祖母井(うばがい)村(現芳賀町)。南北に関街道(烏山経由)が通り、東西に宇都宮と茂木(もてぎ)を結ぶ道が通る。村の中央部を宿組と称し、赤羽上町・赤羽下町の集落が連なり、北部に上赤羽、西に西宿(にしじゆく)、南東部に鴻之宿(こうのしゆく)がある。文禄元年(一五九二)祖母井定久は、西方綱吉の所領上之原(うえのはら)と二子塚(ふたごづか)(一部は現芳賀町)を当地菅之谷(すげのや)と交換している(同年三月七日「西方綱吉契状」横堀卓氏所蔵文書)。 赤羽村あかばねむら 福島県:石川郡石川町赤羽村[現在地名]石川町赤羽北東流する阿武隈川東岸の台地と丘陵に位置し、東は沢井(さわい)村、北東は新屋敷(あらやしき)村、対岸は白河郡川原田(かわらだ)村(現中島村)など、南西は同郡吉岡(よしおか)村(現同上)など。石川三芦城(楓軒文書纂)によれば、源頼義・義家が前九年の役後の帰京のとき、沢井・赤羽の間の御留地(ごりゆうち)館に五日間滞在したという。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文化六年(一八〇九)幕府領高田藩預地、文政三年(一八二〇)幕府直轄領となり幕末に至る。 赤羽村あかばねむら 新潟県:南魚沼郡大和町赤羽村[現在地名]大和町芋赤(いもあか)門前(もんぜん)村の北。芋川(いもかわ)村とは耕地・集落が交わり村境は不分明。東は笠倉(かさくら)山に続く山地、北は湯谷(ゆや)村、西は雷土(いかづち)新田。正保国絵図に村名があり、高八〇石余。天和三年郷帳では高五一石二斗のほか同所新田高一四石六斗余がある。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では新田ともに田三町三反余・畑五町一反余。家数一五、男三七・女二六、馬四。農間稼に女は蚕を飼う。寛政元年(一七八九)に郷蔵の新設を求めて当村上村仁右衛門らの直訴があった。同三年の直訴状(佐藤宏氏蔵)によると、会津藩預所となってからは大割元が新規にたてられ、村入用費がかさむので困窮しているとして、幕府領への復帰を訴えている。 赤羽村あかはねむら 長野県:上伊那郡辰野町赤羽村[現在地名]辰野町大字赤羽沢底(さわそこ)川が天竜川に注ぐ左岸一帯で荒神(こうじん)山北部を含む。正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に「高弐百石 赤羽村」とあるのが初見である。元禄九年(一六九六)の本郷枝郷御改帳(朝日村史)によると「高二百七拾石壱斗四升四合」となり、枝郷として川子沢(かんござわ)がみえる。古くは沢底村に含まれていたらしく、今なお赤羽村と沢底村と田畑が入り交っている。岡谷(おかや)道に沿った街村で、幕末から昭和にかけては村内で通称赤羽焼(あかはねやき)の陶器が製造され、その販売も行われたので商工業で活気を呈した村であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by