日本歴史地名大系 「赤須村」の解説 赤須村あかずむら 長野県:駒ヶ根市赤須村[現在地名]駒ヶ根市赤穂(あかほ) 赤須町・小町屋(こまちや)・市場割(いちばわり)・上赤須(かみあかず)、下平(しもだいら) 南下平(みなみしもだいら)・北下平(きたしもだいら)伊那往還を西の境として上穂(うわぶ)村に接し、東は天竜川、北は大田切(おおたぎり)川、南は中田切(なかたぎり)川を境とする。天竜川河岸段丘により村は上ノ段と下ノ段に発達して、下ノ段は下平と称する。文献上の村名の初見は嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)で、幕府が諏訪社上社の五月会等の結番を定め、「二番五月会、(中略)流鏑馬、赤須・遠山・甲斐治(沼)・大河原・鹿塩地頭等」とある。 赤須村あかすむら 茨城県:行方郡牛堀町赤須村[現在地名]牛堀町島須(します)台地上にあり、南西は牛堀村。中世は島崎(しまざき)郷に属し、隣村の武将島崎氏の所領であったが、同氏滅亡後は佐竹氏に所属、佐竹氏移封後は水戸藩領となった。「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)に、本高三七四石余・新高二九石余、御立山四五町三反余、享保一〇年(一七二五)の人別一八六、馬二一とあり、「水府志料」の戸数はおよそ四四。 赤須村あかすむら 茨城県:常陸太田市赤須村[現在地名]常陸太田市茅根(ちのね)町里川渓谷の東にあり、南は茅根村。明応年中(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)に「あかすのむら」「赤須」とあり、文禄四年(一五九五)七月一六日付の御蔵入目録(秋田県立図書館蔵)に太閤蔵入地として「五十二石七斗 赤須」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「赤須村」とある。 赤須村あかすむら 茨城県:下妻市赤須村[現在地名]下妻市赤須台地上にあり、西は渋井(しぶい)村。室町中期以降多賀谷氏が支配し、江戸時代は天領・旗本領であった。元禄郷帳の村高は三八〇石余、幕末は天領四〇三石余、旗本大河内氏領四斗余、宝蔵(ほうぞう)院除地五斗(各村旧高簿)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by