趙普(読み)ちょうふ(英語表記)Zhào Pǔ

改訂新版 世界大百科事典 「趙普」の意味・わかりやすい解説

趙普 (ちょうふ)
Zhào Pǔ
生没年:922-992

中国,宋朝開国の功臣。字は則平。魏州薊(けい)県(河北省)の人であるが,父の代に洛陽に移住した。宋の太祖趙匡胤(ちようきよういん)が後周の武将であったとき,その幕下書記になり,960年(応暦10),太祖のクーデタ,いわゆる陳橋の変を起こした主謀者の一人であった。その功績によって重用され,964年(乾徳2)には宰相のぼり,太祖の片腕として内政,外交に活躍した。なかでも,唐末五代の混乱を招く原因であった藩鎮専横をおさえるために〈その権柄を奪い,その銭穀を制し,その精兵を収めよ〉との3策を献じ,契丹の保護下にある北漢を後にして,江南諸王国を先に征伐すべきことを進言するなど,宋朝の国づくりに果たした彼の役割は大きい。太宗朝の初め,科挙出身の官僚盧多遜が重用されたため,一時不遇であったが,やがて復活してふたたび宰相になり,魏国公に封ぜられ,死後に韓王を追封された。太祖の勧めで読書家になったという逸話は有名。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「趙普」の意味・わかりやすい解説

趙普
ちょうふ
(922―992)

中国、北宋(ほくそう)建国期の政治家。字(あざな)は則平(そくへい)。幽州薊(ゆうしゅうけい)県(天津(てんしん)市薊県)の人。後周(こうしゅう)の時代、趙匡胤(ちょうきょういん)(宋の太祖)の幕僚となり、960年には趙匡胤推戴(すいたい)運動の中心人物として活躍し、後周から政権を奪取することに成功した。その功によって右諫議大夫(うかんぎたいふ)となり、枢密使などを歴任し、964年宰相に就任した。太祖の信任が厚く、在職中しばしば太祖に献策して、内外の治政に手腕を振るい、藩鎮(はんちん)解体、禁軍の強化をはじめとする文治主義的な中央集権化を推し進め、宋朝支配体制の確立を図った。太宗趙匡義の時代にふたたび宰相に返り咲いたが、晩年は不遇であった。趙普は実務家あがりの政治家で、進士出身の官僚とは反りがあわず、しだいに疎んぜられていった。

[伊藤宏明]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「趙普」の意味・わかりやすい解説

趙普
ちょうふ
Zhao Pu; Chao P`u

[生]後梁,竜徳2(922)
[没]北宋,淳化3(992).7.18. 開封
中国,北宋建国の功臣。薊 (河北省薊県) の人。後周 (→五代 ) の世,初めて軍事判官となり,のち趙匡胤 (→太祖)が同州節度使のとき節度推官,匡胤が宋州に移ると節度掌書記となり,匡胤と親密になった。匡胤は陳橋駅で部下に帝位に推戴されたが,このクーデターの推進者の一人といわれ,その功により建隆1 (960) 年右諫議大夫となった。同3年枢密使,乾徳2 (964) 年から開宝6 (973) 年まで宰相をつとめて宋朝の基礎を固めた。

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