改訂新版 世界大百科事典 「足利織物」の意味・わかりやすい解説
足利織物 (あしかがおりもの)
関東各地の織物産出は《続日本紀》によって奈良朝以前までさかのぼりうるが,栃木県の足利が織物産地として名をなすのは18世紀半ば,とりわけ高機(たかばた)が普及した18世紀末以後のことに属する。先進地桐生(桐生織物)と同じ高級絹織物のほか大衆的な絹綿交織物と綿織物を盛んに生産し,19世紀に入ると桐生を離れて独自の市を開設した。桐生側は対抗措置を講じてこれらの動きを抑えようとするが,かかる抗争を伴いつつも,他面では国や県の区画をこえて両者の間には織物の業者組織や技術や売買等に関する相互浸透があった。1874年の統計によれば,桐生を含んだ当時の栃木県の絹織物・絹綿交織物・綿織物の産額は226万円(全国の33%)と高く,桐生が群馬県に移された76年以後も,足利地方は県産額の70%前後を担当して日本有数の織物産地であった。幕末・明治期の当地の織物生産は小規模経営や元機(もとばた)(問屋)が周辺に散在する小農の婦女子に賃織りさせる方法にゆだねられ,この様式は,明治末に水力発電所が創設され大正・昭和初期に力織機が普及した後にも大きく崩れることはなかった。90年代以後に撚糸・染色等の大工場が出現したが,元機のほか,中小の織物工場にも賃機(ちんばた)ないし賃織工場を擁するものがあったからである。
1877年の西南戦争後に足利織物業は盛況を迎えたが,その後松方デフレ政策期や90年代後半期などたびたび不況を体験しながらも,とくに絹綿交織物と綿織物の産額を伸ばしていった。他方85年を底とする不況期には輸出織物の生産に活路を求めて急成長を遂げ,90年代には国内向け製品の産額を凌駕する年もあったが,98年をピークとして衰えた。絹綿交織物も景気変動の激しかった大正期を乗りきったが,1929年恐慌後にわかに影を潜め,代わって絹紡糸を主要原料とする銘仙が主力製品となった。敗戦後,緯糸(よこいと)に人絹を用いた銘仙が人気を呼んだのは50年から約10年間で,以後従来の着尺(きじやく)物の生産は停滞し,化繊による経編(たてあみ)メリヤス(トリコット)をはじめスカーフやレース類を生産する時代に入った。
執筆者:工藤 恭吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報