改訂新版 世界大百科事典 「桐生織物」の意味・わかりやすい解説
桐生織物 (きりゅうおりもの)
上野,下野,武蔵などの国々は8世紀ころには絹を織り出しているが,桐生織物が広く知られるようになったのは,主たる需要地=都市が発展しつつあった17世紀末以降である。1660年代には京都に生絹(半製品)を移出していて京都との接触もふるく,1720年代には早くも西陣(にしじん)の整理・染色の技法が伝えられた。1685年(貞享2)幕府の白糸(しろいと)輸入制限は上州産生糸を西陣に進出させていっそうその関係が深まったが,それは同時に上州の製糸技術を向上させた。1738年(元文3)に実現した西陣からの高機(たかばた)導入と織物師の来桐とは,製織の能率を高め紗綾の製法を当地にもたらした。その後も高級品製出のための技術開発が続けられ,完成品生産が主流となるに及んで,京都中心の流通機構から脱し独自に市場を開拓した。1731年(享保16)桐生新町の市日変更後,買継商を中心とする六斎市は隆盛に赴いた。西陣におけるギルド的規制や18世紀の両度の大火,あるいは〈大名御用達〉の看板を掲げる地方の商人,織屋たちの動きなども,西陣の織工や紋工などの地方流出や染織技術の伝播を助長した。加えて桐生新町は法制的には村であり,周辺一帯は多数の領主の領地が錯綜して支配力も貫徹しにくかったから,織物業は問屋制下の農村工業として比較的自由に発展しえた。かくて桐生は丹後とともに二次的伝播の起点となって他機業地に製織・加工技術を広めたが,その過程で,隣接する足利(あしかが)織物の台頭に悩まされた。足利ではより大衆的な絹綿交織物や綿織物をも生産したが,1832年(天保3)に独自の市を開設するに至って桐生との対立が表面化し,解決を見ないまま明治維新を迎えた。その間,天保改革の奢侈(しやし)禁止や幕末開港による生糸輸出で原料生糸が払底するなど,桐生は苦難の時期を体験した。
維新後は松方財政の実施期まで非常な好況に恵まれ,85年を底とする不況を克服し,輸出織物の生産に活路を開いた。90年代の羽二重ハンカチーフを初めとする輸出織物産額は内需織物産額を凌駕(りようが)したほどである。桐生の業者は洋式の染色・力織機などを積極的に取り入れて近代化に努め,政府や県当局もそれに手を貸した。また1870年代末から20世紀初頭にかけて実現した第四十銀行桐生支店の開設,両毛鉄道の開通,桐生織物学校や渡良瀬(わたらせ)水力電気株式会社の創立なども,織物業の近代化に欠かせないことがらであった。織物業にかかわる会社や工場も漸増し,絹綿交織物をも加えて製品の種類と数量も多くなり,さらに1920年代以降は人絹織物や絹洋服地の生産も軌道に乗せていった。しかし織屋が多数の賃機(ちんばた)を従属させて行う問屋制的生産形態は根強く残った。1912年の群馬・栃木両県の織物産額3500万円弱(うち58%が群馬県産)は全国総生産額の10%を越えるが,その大半は桐生,足利を中心とする両県境地域(山田,新田,邑楽(おうら),佐波,足利,安蘇の6郡)に集中している。そして桐生の有力買継商は,たんに桐生において指導的役割を果たしたばかりでなく,足利,伊勢崎(伊勢崎織物)など周辺の県境地域にも大きな影響力を発揮し,明治中期以降には東京,横浜あるいは海外の仁川,上海にまで支店や出張所を設置して,販路の拡張に活躍した。第2次大戦期に壊滅的な打撃を受けた桐生織物業は,1950年以後,国際情勢の好転,国民生活の安定などで回復し,縫製品や刺繡工品の生産も活発となった。
執筆者:工藤 恭吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報