地名は、応仁の乱で山名宗全らの西軍がこの地に陣を置いたことから生じた。地名としては「蔭涼軒日録」文明一九年(一四八七)正月二四日条に「彼僧衆書記云者一人相残、在西陣」とみえる。その地域を京都御役所向大概覚書(享保三年)は「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通」と記す。
近世の町数は「親町要用亀鑑録」では上西陣組一三六町、下西陣組八六町、計二二二町となっており、同覚書では一六八町とする。また覚書は元禄九年(一六九六)・同一〇年の米拝借記録として、両年度ともに一六七町と記す。くだって文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳は上西陣組一三四町、下西陣組八二町、計二二二町とし、内訳を上西陣組は古町一二組八〇町・新シ町七組四八町・離レ町六町、下西陣組は古町一〇組七七町・離レ町五町と記す。双方の古町の計は一五七町である。上京の町々はしばしば分離・統合しているが、一六〇町前後の数は古町のみで、二二二町は枝町・新ン町・離レ町・門前境内組を含めた数と思われる。
近世は京都第一の産業である絹織物を産し、現在も西陣織は日本を代表する高級織物として世界に知られる。享保一五年(一七三〇)西陣に起こった大火はおよそ北は廬山寺通、南は一条通、東は室町通、西は北野神社にわたる三千数百軒を焼いて「西陣焼け」とよばれ(西陣天狗筆記)、天明八年(一七八八)の大火でも大損害を受けた。
京都の織物は
一方
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市上京区の地名。西陣織の産地として有名である。地名は応仁・文明の乱において西軍(山名宗全)方の陣所となったことに由来する。この地を西陣と呼んだ初見史料は《蔭涼軒日録》文明19年(1487)正月24日条で,常在光寺の荒廃に触れて〈西陣辺〉と記され,乱後10年目にはすでに地名化していた。その西陣の中心に近い堀川上立売のあたりに現在山名町があり,これは山名宗全邸趾である。西陣の範囲は近世の《京都御役所向大概覚書》によれば〈東ハ堀川を限り,西ハ北野七本松を限り,北ハ大徳寺今宮旅所限り,南ハ一条限り,又ハ中立売通〉であった。ただし現在の西陣織業者は,烏丸通,北大路通,西大路通,丸太町通で囲まれた地域と鷹ヶ峰,御室,上加茂方面で営業している。
この地を有名にした織物機業の歴史は,地名よりも古く,古代にまでさかのぼる。京都の伝統産業には,古代からの伝統を受けつぐものが多いが,織物業もその一つである。大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)は最高級の織物を生産していた。古代律令制のもとでは,手工業の高級技術はすべて朝廷に握られていたのである。しかし平安時代中ごろから朝廷では工房を維持することが困難になり,職人たちも独立の方向を示した。織部司に属した織手たちは万里小路家を本所として大舎人座を結成し,中世織物業の中心となった。応仁・文明の乱が起きると,織手たちは戦乱をさけて奈良,大津,堺などに疎開したが,大乱が終わるとともに帰洛し,現在の新町今出川上ル新在家町辺の白雲村に住んで営業を再開した。このころ,技術的には躄機(いざりばた)から紋様織の可能な高機(たかはた)へと展開を示す。1513年(永正10)には綾織の独占権を得,47年(天文16)には大舎人座中の高機織屋三十一人衆が上様・御台所被官人として将軍家直属の織物所に指定された。天正年間(1573-92)には,白雲村の水質が練糸に不便であるとの理由で,現在地に移る。文禄年間(1592-96)には,従来国内では織ることのできなかった金襴の生産に成功した。《雍州府志》に〈近世西陣人,中華の巧を傚いて金襴,緞子,繻子,細綾,縐紗,紋沙類,織らざるは無し〉といわれるように高い水準を示した。
執筆者:黒川 直則 近世の町数は,上西陣組136町,下西陣組86町,計222町となっている(《親町要用亀鑑録》)。近世には高級絹織産地として名声を確立し,羽二重,新在家熨斗目,亀屋嶋などの製品も西陣の地で織られるようになった。絹織物が貴族から上層の武士や町人にも需要されるようになり,西陣機業は急速に発展した。1638年(寛永15)の《毛吹草》には,織物の種類として〈西陣撰糸(せんじ),厚板物(あついたもの)(綾 練嶋 紋嶋等) 金襴 唐織 紋紗(もんしや)戻(もじ) 絹縮(きぬちぢみ)木綿羽織地 同袴地(はかまじ)等 色糸 絹糸〉と記す。
原料糸として輸入生糸(白糸)が多く用いられた。江戸幕府は1604年(慶長9)糸割符(いとわつぷ)制度をしき,京都,堺,長崎に各100丸(1丸は50斤)を割り当てた。97年(元禄10)には改正され,京都,堺,江戸に各100丸,大坂50丸,長崎150丸となった。そのほか呉服所へ700丸,御納戸御用300丸があり,合計1500丸(7万5000斤)となった。これらの糸の多くが,織物を生産している西陣に送られたようである。織物の生産増加に伴い,和糸の生産も増加し,和糸問屋,糸仲買を通して西陣に送られた。1716年(享保1)には京都へ13万斤の和糸が入荷した。西陣以外の絹織物産地が出現してくると,原料和糸の奪いあいが起こった。そして糸屋はしだいに織屋に対して発言権を強めていった。西陣の織屋は織部司の系譜をもっていて,その地位は高かったが,江戸期に入って原料糸の調達や織物の売却のために,全国の市場と結びついている糸商や織物商の機能が生産面を統轄するようになり,織屋は商人に従属するようになった。糸商から高い糸を売りつけられ,織物商からは前借金の利息や歩引を取られたのである。江戸中期からは西陣は台頭してきた丹後,長浜,桐生,足利などの攻勢を受けた。他の産地は西陣から技術を学び,技術を向上させて,中流階層以下の需要を西陣から奪っていった。
執筆者:安岡 重明 しかも,1730年に西陣の一角から起きた火災(西陣焼)によって,7000余機のうちの半数近くの織機を焼き,88年(天明8)の大火では,さらに大きな被害を受けた。西陣では,すでに1745年(延享2)に株仲間を設置していたが,この仲間組織を通じて地方産織物の京都流入阻止を訴えたが大勢はおさええなかった。さらに,天保改革で株仲間が解散させられたうえに,倹約令で絹織物が禁止されたことで大きな打撃を受けた。明治維新では,東京奠都によって,多くの購買者を失ったが,奠都下賜金である産業基立金の援助によって西洋の技術の流入をはかり,その後も再三にわたる経営危機に遭遇しながらも現在に及んでいる。
執筆者:黒川 直則
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京都市上京(かみぎょう)区の今出川大宮(いまでがわおおみや)を中心とし、ほぼ北は鞍馬口(くらまぐち)通、南は一条通、東は新町(しんまち)通、西は千本(せんぼん)通に及ぶ地域の総称。もとは微高地の原野であったが、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)の際、東軍の細川勝元(かつもと)の東陣に対して、西軍の山名宗全(やまなそうぜん)の陣営が置かれたのが西陣の名称の起源である。
豊臣(とよとみ)秀吉は京都の復興にあたって、堺(さかい)から中国の新しい織物技術を学んだ職人たちを西陣の地に集めた。機業地としての西陣の始まりである。江戸時代には幕府の保護のもとに大いに発展し、元禄(げんろく)時代には機屋数5000軒に及び、高級絹織物としての西陣織の名は全国に知られた。1868年(慶応4)の東京遷都によって一時衰微したが、西欧からジャカード織機などを取り入れて近代化を図り、伝統産業として新たに復活した。伝統技術を生かして帯地、着尺地(きじゃくじ)、ネクタイなどの服飾品から室内装飾品などにわたる高級絹織物が家内工業的に生産されている。機屋のほか、問屋、銀行などもあり、今出川から南の千本通は西陣京極(きょうごく)とよばれ、庶民的な繁華街をなしている。堀川(ほりかわ)今出川には西陣織会館があり、西陣織の実演や、着物ショー、西陣織の製品の展示・即売が行われている。そのほか、旧西陣織物館の建物が市の登録文化財となっている京都市考古資料館や雨宝院(西陣聖天)、晴明神社などがある。
[織田武雄]
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…江戸中期ごろまで日本の絹糸の質は中国産に劣っていたが,国費の流出をふせぐ意味から輸入が制限され,国産の絹糸が用いられるようになると,それが各藩における殖産事業と合致して各地で絹糸,白絹を生産するようになった。【小笠原 小枝】
[日本の絹織物業]
17世紀における絹織物業の中心地は京都西陣(西陣織)であり,中国からの輸入原料生糸の割当て(糸割符(いとわつぷ))などの点で江戸幕府の手厚い保護を受け,堺や博多などの絹織物業を圧倒しつつ発展していった。幕府は一方で百姓・町人による絹物の着用を厳しく制限しながらも,武士階級には参勤交代,妻子在府制などを通じて江戸における高度な消費生活を強制しており,西陣機業は彼らに高級絹織物の安定した需要を見いだすことができたのである。…
… 市内での就業者数の産業別内訳では製造業が28%(1995)を占め,また市内純生産のうち製造業の占める比率も32%(1994)で,京都市はふつう考えられるよりは工業都市的色彩が強い。京都市の工業は繊維工業を主とし,その代表は市街北西部の西陣を中心とした西陣織で,高級呉服地や帯地の生産が行われ,また元禄年間(1688‐1704)に絵師宮崎友禅によって始められたといわれる友禅染も重要である。そのほか東山の山麓で慶長年間(1596‐1615)から発達した清水焼や,京仏具,京漆器,京扇子など,京都の工業は工芸品的な高級品製造を行う伝統工業に特徴がある。…
… 近世の商品のなかで大きい地位を占めた呉服は趣味性の強い商品であった関係もあって,蔵物・納屋物とは異なった多様な流通経路をたどった。西陣で織られた絹織物は,上仲買の手をへて下仲買(室町問屋)の手に渡り,それが消費地へ送られるのが原則的な形であったが,京都に本拠をおき,江戸へ進出して発展した大呉服商(越後屋,白木屋,大丸屋など)は,おおむね次のような形をとった。江戸に小売店を設け,そこで販売する呉服を京都で仕入れる際,室町問屋の手を通さず,西陣の地に設けた直営店を通したり,上仲買から直接購入したりした。…
…1730年(享保15)6月20日,京都洛中で発生した大火。いわゆる〈西陣組〉のうち108町を全焼したのでこの名がある。同日昼八つ時(午後2時ごろ),上京上立売通室町西入大文字屋五兵衛居宅から出火,おりからの北東風のち北風にあおられ,西・南方へ延焼,上西陣組,下西陣組,小川組,北野などにまたがる地域を焼亡し,翌朝八つ時に鎮火した。…
…中国糸は精巧で高級な絹布の原料として珍重された。白糸は糸割符(いとわつぷ)商人の手により京都西陣へ送られ製織されたが,この糸は為登糸とは言わなかった。17世紀中葉,日本各地で国産生糸が多く生産され,京都に送られるようになり,これを為登糸という。…
…和糸は17世紀前半から後半にかけて,とくに近江,美濃をはじめとして国内諸国で生産され,京都へ移入されるようになり,生糸供給を補完したが,需要増大と白糸供給の不安定さ,国産奨励政策もあって,18世紀半ばごろまでには京都機業への供給においても大宗を占めるに至った。 和糸問屋は,和糸生産の増大とともに発生し,生産地荷主→京都和糸問屋→糸仲買→西陣織屋・組糸屋等,の流通過程の一端を担った。荷主と糸仲買両方から得る口銭と,荷主に対する前貸金利息とをおもな収入とした。…
※「西陣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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