足利荘(読み)あしかがのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「足利荘」の意味・わかりやすい解説

足利荘 (あしかがのしょう)

下野国の荘園。栃木県足利市一帯。源義国が,義家から譲渡された足利郡内の開発私領を,鳥羽上皇の御願寺である安楽寿院に寄進することによって,1142年(康治1)に立券された。領家職は安楽寿院から美福門院,八条院を経て大覚寺統へと伝領され,荘官(下司)職は足利氏が相伝した。成立当初の足利荘は田98丁余,畠106丁余からなり,国絹71疋余,四丈白布200端,油5石が,安楽寿院に納められた。1183年(寿永2)の野木宮合戦で藤姓足利氏が没落したのに対して,源頼朝の麾下きか)に入った足利義兼が鎌倉政権内で重きをなすようになり,源姓足利氏はしだいに勢力を拡大した。それにつれて足利氏の居館(のちの鑁阿(ばんな)寺)を中心に荘の経営が進み,足利郡全体が足利荘と称されるようになった。室町幕府成立以降は足利将軍発祥の地として重要視され,幕府の直轄地とされた。しかし15世紀には上杉氏の管理下におかれ,のち上杉氏の被官長尾氏が支配するところとなった。1584年(天正12)から翌年にかけて後北条氏の上野侵攻があり,足利一帯は北条氏規らによって占領されるにいたった。
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百科事典マイペディア 「足利荘」の意味・わかりやすい解説

足利荘【あしかがのしょう】

下野国足利郡の荘園。現栃木県足利市一帯。1142年源義国が私領を山城安楽寿(あんらくじゅ)院に寄進して立荘。当初の田畠約205町,安楽寿院への年貢は国絹71疋余・四丈白布200端・油5石。下司職は義国の子孫源姓足利氏が相伝,足利氏は鎌倉幕府の有力御家人として勢力を拡大し,郡全体が足利荘と称されるに至った。現足利市の鑁阿(ばんな)寺は,荘経営の中心であった足利氏居館内に建てられた持仏堂を前身とする。室町幕府成立後は将軍家発祥の地として幕府直轄地となった。永享の乱後は上杉氏の管理下におかれ,代官長尾氏が支配,1594年豊臣秀吉に制圧された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利荘」の意味・わかりやすい解説

足利荘
あしかがのしょう

下野(しもつけ)国足利郡、梁田(やなだ)郡(栃木県足利市)の全域に成立した荘園(しょうえん)。1142年(康治1)に安楽寿院(あんらくじゅいん)領足利荘(田畑それぞれ約100町)、翌1143年伊勢二宮(いせにぐう)領梁田御厨(やなだみくりや)が成立した。この地域において、秀郷(ひでさと)流藤原姓の足利氏(家綱(いえつな)、俊綱(としつな)、忠綱(ただつな))と源姓足利氏(義国(よしくに)、義康(よしやす)、義清(よしきよ))が勢力を競い合っていたが、治承(じしょう)・寿永(じゅえい)内乱期に前者が滅亡すると、源姓足利氏が支配権を確立し、足利荘と梁田御厨を含めて足利荘と称するようになった。鎌倉・南北朝時代を通じて足利氏の基盤となり、室町時代には将軍家御料所(直轄領)として幕府政所(まんどころ)の支配下にあったが、享徳(きょうとく)の乱の最中1466年(文正1)にこの地は長尾景人(ながおかげひと)に与えられ、長尾氏は1590年(天正18)までこの地を支配した。

[峰岸純夫]

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