北面とは,院の御所の北面を詰所として上皇の側近に仕え,身辺の警衛あるいは御幸に供奉(ぐぶ)した地下(じげ)の廷臣,衛府の官人らをいう。院司の一つで院の北面とも。白河院政開始後ほどなく創設され,はじめのうちは〈御寵童〉なども含んでいた。諸大夫以上を上(しよう)北面,五,六位の譜代の侍を下(か)北面と呼ぶ。下北面は白河院死去のときに合わせて80余人に及んでいたが,そのなかには武士が多くとりこまれていた。これをとくに北面の武士といい,院の親衛軍的存在であった。これら北面の武士は旧来の官人たちとは違って少なくない数の郎従を従えており,1118年(元永1)延暦寺大衆の入洛を防ぐため動員された〈北面に候ずる人々,郎等〉は1000余人に及んだという。
院中警衛機関としてはすでに御随身所(みずいしんどころ),武者所があった。前者が儀仗兵的な色彩の強い護衛兵にとどまったのに対し,後者は北面に通じるところがあり,武者所の武力的性格がしだいに北面にとりこまれていった可能性もある。北面の武士を構成する人々の出身や性格はまちまちで,一括することはできないが,およその類型として,(1)畿内近国の在地小武士団の首長,(2)受領クラスの武士(彼らは国衙を中心に組織されていた在地の武士団を動員して院の警固を行う)の二つを想定しうる。もちろん,両者を兼ねたような存在もあり,白河院の北面に候じた伊勢平氏の平正盛などはその典型であろう。正盛の子忠盛も白河・鳥羽院の北面に候じたが,その行動には北面の武士の首領的性格がみられ,院の北面と平氏との緊密な関係が知られる。鎌倉幕府成立後,後鳥羽上皇によってさらに西面(さいめん)の武士が新設され,上皇直属の軍事力は強化されたが,承久の乱の結果,西面は廃され,北面もその軍事的性格を失った。しかし,鎌倉時代末までは依然院中にかなりな人数の上下北面を擁し,その後,規模を縮小しながらも江戸時代末まで続いた。
執筆者:高橋 昌明
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院司(いんし)の一つ。上皇の身辺警護を職掌として,上皇御所の北面の詰所に伺候した武士。古くからあった院武者所(いんのむしゃどころ)と並ぶ上皇の警護の組織として,白河院政期以降おかれるようになった。武芸にすぐれた者が任じられる名誉ある地位と考えられ,上皇との主従制的結びつきを強めることにより,院政政権の軍事的基盤の一つとなった。受領(ずりょう)・検非違使(けびいし)などに任じられる者,和歌などの芸能にすぐれた者などを輩出し,朝廷社会で華々しい活躍をみせた。五位以上の者を上北面,六位以下の者を下北面とよんで区別した。後鳥羽院政期には,北面の武士とともに西面(さいめん)の武士がおかれたが,承久の乱以降,西面は廃絶,北面の地位も低下していった。
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…院政を支える近臣団には受領層や,葉室顕隆など院との個人的関係ことに乳母関係や寵幸等によって抜擢された中・下級の貴族や実務官僚たちがあり,また源氏,平氏等の武士があった。院直属の武力の〈北面の武士〉は白河院のときにはじまる。院が自己の武力を必要としたのは,父の意に反して皇位継承から排除した輔仁親王をめぐる勢力への警戒心や,延暦寺,興福寺等武力を背景にはなはだしくなった嗷訴の防御もその理由とされる。…
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